アメリカのおいしい生活
10月
19日月曜日

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  #151 エコ・シャトルに乗って
 
 

 先週の木曜、娘が通っている学校が、Empty the Lot Dayなるイベントを催した。「駐車場を空っぽにする日」である。
 幼稚園から高校まであるこの学校の生徒たちの大多数は、普段、親が運転する車で送り迎えされている。毎日の登下校時、車で溢れかえる駐車場を空っぽにしよう――つまり、車を使わずに登下校しよう、という試みなのであった。
 車の代わりに提案されたのは、バスや自転車、徒歩。普段は有料のスクールバスが、この日だけは無料になった。車を使わないとはいうものの、遠くから来ている生徒のなかには、やはり車に頼らざるを得ないケースもある。そういう場合には、カープールといって近くに住む生徒たち同士の相乗りが奨励された。
 我が家は、学校まで車で七分ほど。約六キロの道のりだ。歩くには長すぎるし、どうしたもんかいな、と思案していたら、我が家がある住宅地から、路面電車の駅まで行くシャトルバスがあるのを思い出した。学校はその駅の手前にあり、ドライバーに言えば途中下車させてもらえるという。
 シャトルバスは三十分に一本。八時二十分の始業に間に合うためには八時ちょうどのシャトルに乗らなければいけない。バス停まではウチから徒歩で十分。
 いつもなら八時十分に出れば始業時間に間に合うところ、その日は二十分早い七時五十分に家を出た。朝の二十分は大きいなあと思う一方、二十分早く家を出るだけで車がいらないのか、と意外な感もある。
 空はどんよりしていたが雨は降らず、ぬるいと感じるくらいの暖かい日だったのは幸いだった。
 シャトルバスは時間通りにやってきた。二十人ほど乗ったらいっぱいのバスは、ecoShuttle(エコ・シャトル)という名まえ。食用に使った廃油を利用してでき、石油ディーゼルよりも排ガスがきれいというバイオディーゼルだけを使用しているから、エコな車なのだそうだ。ここの住宅地の自治会はかなり環境に気を遣っており、月一度のニュースレターを郵送せずにEメールで配信するようになったりしたが、エコ・シャトル採用もその一環だろう。
 普段は自分で運転する道を、娘とふたりでバスの席に座り、窓の外を眺めながら行く。いつもはたいてい時間ギリギリだから焦って運転していることが多く、そんな時に限って前にいるのろまな車にイライラを募らせているものなのだが、シャトルに乗ると、心穏やか、窓からの景色がいつもと違って見える。
 学校の正門でバスを降りたのが八時十五分で、それから歩いて教室まで娘を送っていって、ちょうど始業時間に間に合った。
 なんだ、こんなにカンタンなことなのか、と、やってみれば思うのだ。普段は、車がないとなにもできないと思っているけれど、いざやってみれば、拍子抜けするほどカンタンなもの。
 娘を送ってから、また正門のまえに戻ってシャトルを待つ。駅に着いたバスは折り返さずに別のルートを通って住宅地まで帰る。三十分かけて巡回する格好だ。だから、さきほど降りたのと同じ場所に立って、次の便が来るのを待つ。
 なんだ、こんなにカンタンなのか、と思いながら、一方では、普段、車で移動しているときには感じることのない

「糸の切れた感じ」

がやや不安ではある。車で移動していればどこからだって自力で帰ることができる、つまりどこにいたって自分の家と繋がっている感があるが、公共の交通機関を利用すると、「もしもバスが来なかったら?」と考えると心配になってくるのだ。
 日本に住んでいたときには車など運転せず、どこへ行くにもバスと電車を使っていた私がこんなことを感じるのも我ながら妙なのだが、車に頼ったアメリカ式の生活にすっかり慣れてしまった今、車がそばにないと不安になる。日本ほど公共交通機関が発達していないから、「いざとなったらタクシーがあるさ」というようなオプションがないせいもあるかもしれない。
 ほぼ時間ピッタリにやってきたシャトルバスを見て安心したのもつかの間、「乗せてー」と手を振る私のまえを通り過ぎていったのには、ドキリとさせられた。シャトルは、百メートルほど先で止まった。途中から乗る人は珍しいから、ドライバーがうっかり行き過ぎるところだったらしい。まるで私の不安な心模様を見透かされてからかわれたかと思った。
 家に戻ったのは九時ちょっとすぎ。娘を学校に送っていくのに、車を使うよりもトータルで四十分ほど余計にかかったことになる。朝食を用意して、弁当作って、娘の身支度に自分の身支度……ただでさえ一分も惜しいほどの慌しい朝に、余計に時間がかかるというのはなかなか厳しい。おまけに、これから寒くなるうえに雨の季節になるから、シャトルバス通学が定着するかどうかは疑問である。
 しかし、「環境にかける負担をちょっと減らした今日の私」というのはなかなかいい気分であった。ささやかなことではあるが、みんなのささやかな努力が地球規模では大きな効果を発揮したりするものなのだと思いたい。
 とりあえず、週に一度くらいのペースでシャトルバスに乗れたらいいな、と目標を低く設定してみることにした。
 
 この「駐車場を空っぽにする日」のシャトルバスには、娘のクラスメイト親子も一緒に乗った。同じ住宅地に住んでいるエラちゃんとその父親のジェイク。
 背が高くて眼鏡をかけたジェイクはいつもクールな表情なので、一見とっつきにくそうな感じなのだが、話してみると、印象が違う。その場限りの会話を愛想よくこなしている、という上滑りした感じがせず(よくいるのだ、こういうタイプが)、きちんと会話を積み上げて行く感じ。質問はたくさんしてくるし、以前に私が言ったことなども几帳面に覚えている。なんというのか、相手に興味を持って会話している、ということが伝わってくるのである。
 エラちゃんはこの九月から娘の学校に入ってきたニューフェース。下に、三歳になったばかりの弟がいて、朝と午後一時半の送り迎えには、その下の子も連れたジェイクが登場することが多い。
「家で仕事してるんですか?」
 と、訊いてみた。
「そう。先月からちょこっとね。コンピューター関連なんだけど。まえにいた職場の人からやらないか、って誘われて。パートタイムだよ」
 日中は子どもの面倒を全面的に彼が見て、夜、子どもたちが寝てから仕事をするのだそうだ。
「奥さんのジョアンは――?」
「彼女は医者。腫瘍学――つまりガン患者を診るんだよね」
 医者の妻に、パートタイマーの夫。妻が経済を支えている世帯だ。
 アメリカでもそんなに多いケースではないが、もはや驚くほどでもない。ウチのごく近所にも、奥さんが外に出て働き、在宅イラストレーターの夫が子どもの面倒を見ているカップルがいるし(この家の場合は、どちらかがより大きく経済を支えている、というパターンではなさそうだが)。
 少し話はそれるが、娘がこの九月から地元のサッカーチームに入った。毎週金曜の午後四時から五時。三十人ほどの女の子たちが三つのチームに分かれて、練習と試合をする。サッカーといっても、五、六歳の子どもらのこと。グラウンドの隅で座り込んで草むしりをしている子がいれば、サッカーなんかやりたくない、とふくれっつらしている子もいる。ボールを追いかけてフィールドの外をどこまでも走っていく子もいるし、自分のゴールに向かってシュートしちゃう子もいる。見ていて飽きない。
 各チームには、それぞれコーチと副コーチがいる。計六人のコーチはみんな、チームに入っている子どもたちの父親だ。
 毎週金曜の午後四時に子どものサッカーのコーチをしている父さんが六人、である。

「日本じゃあり得ないな」

 初回に、私は思わずつぶやいた。
 自営業などで時間の融通がきく父さんは日本にもいると思うけれど、毎週六人、というのはなかなか難しいだろう。
 娘のサッカーチームのコーチたちは、六人全員が自営業や在宅だとは思えない。会社勤めの人もいるだろうと思うのだが。アメリカ人の働き方は、日本人の働き方よりもだいぶフレキシブルに見える。
 コーチだけでなく、練習を見に来ている親たちのなかにも父親の姿が多い。
 思わず、クオリティ・オブ・ライフという言葉が頭に浮かぶ。
 日本はこれまでにアメリカをお手本にいろいろと取り込んできたことがあるけれど、ファストフードとか大量生産・大量消費とか能力主義とか、そんなものばかりだ。金曜の午後四時に父さんが子どものサッカーに付き合えるような働き方も、アメリカから学べばいいのに、と思うのであった。

 
 
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