オレゴン通信(連載エッセイ)

大石洋子 2018年9月27日

大石洋子 2018/9/27
#292 フェンシングの日々

9月某日
 娘がフェンシングを始めて5年。今年も新しいシーズンが始まった。
 9月は、遠征試合が三週末続いた。テキサス州ダラス、カリフォルニア州サンノゼ、ワシントン州シアトル。
 2泊3日のダラス行きは私が付き添った。一日目は14歳枠で、参加人数が40人ほどの小さなトーナメントであった。娘は、この枠に参加できるのは今シーズンが最後。つまり、参加者の中で最も年上なのである。経験が浅い年下のフェンサーたちを蹴散らしての上位入賞が期待された。
 一歳年下の強敵Aと準決勝で当たったが(カリフォルニアから参加の左利き)、コーチと共に研究を重ね、A対策の練習をしていたので、娘は勝った。あとは勢いに乗り、優勝を決めた。
 ひとしきり喜びに浸った後は、翌日の試合に気持ちを切り替える。2日目の試合は17歳以下の枠で、今度は娘が年下のほうということになる。失うものは何もないし、上位入賞を期待されるわけでもないから(もちろん入賞できればうれしいけれど)、思い切ってのびのびやったらいいよ。
 そんなふうに娘に声を掛け、電気を消して眠りについたのが、夜の10時過ぎであった。
 翌朝。ふと目を覚ますと、カーテンから光が漏れている。
 枕元のスマホを手に取り、時刻を確認。
 7:40。
 うん? よく事情が飲み込めず、ベッドから降りて、娘のほうのベッドサイドテーブルの上にあった時計を確認。やっぱり、7時40分である。
 いっぺんに目が覚めた。試合は8時からなのだ。本当なら、7時に会場入りし、一時間かけてウォームアップしていなければならないのである。
「大変! 7時40分だよ!」
 声を掛けると、娘は跳ね起きた。
 ベッドから飛び降り、娘はビデオの早回しみたいに大急ぎで着替え始めた。
「どうしよう、あと20分しかないよ、間に合うかなあ、間に合わないかもねえ……」
 おろおろする私に向かって、娘はきっぱりと言った。
「間に合う! 間に合わせる!」
 キャスター付きの大きなバッグに道具を詰め込むと、娘は歯も磨かずにホテルの部屋を飛び出した。
 私たちが泊まっていたのは会場であるコンベンションセンターに一番近いホテルだったが、それでもシャトルに乗らなければならない。乗ってしまえば2、3分ほどなのだけれど、一台しかないバンが都合よくホテルにいるかどうか。
 私も慌てて着替え、娘に続いてフロントまで下りて行った。シャトルが外に停まっていて、ドライバーが荷物を積んでいるところだった。娘はもうバンの中に座っている。試合開始まであと10分。
「急いで!」
 私はドライバーに何度も声を掛けたが、南米系と見える彼は英語がわからないようで、動きは終始緩慢であった。
 娘を送り出した後、荷物をまとめてホテルをチェックアウトしなければならなかった私は部屋に戻った。オンラインで確認したら、その日の試合参加者リストに娘の名前があった。ふう。間に合ったのだ。
 スマホの目覚ましをセットしたとばかり思っていたが、し損ねていたことに気がついた。これからは、私のスマホだけでなく娘のスマホでも目覚ましをかけ、ホテルの時計とウェイクアップコールもセットしておこうと固く心に誓った。
 それにしてもこういう時には、なぜ「まだ間に合うかもしれない」というぎりぎりのタイミングで目が覚めるものなのだろうか。試されている気がしてならない。そんな中、「間に合わせる!」と高らかに宣言し、実際にその通りにした娘を頼もしく思った朝であった。
 
9月某日
 フェンシングの試合は、まず6、7人のグループに分かれての予選から始まる。5点制の総当たり戦だ。
 本選は、予選の結果に従ってのトーナメントで15点制。上位の選手は、下位と当たる。順当に行けば強い者たちが勝ち残って戦うことになるが、番狂わせもよくある。
 小さな大会でも、優勝するまでには本選で4、5回勝たなければならない。全国大会ともなると、6、7回勝ち進まなければならないのは当たり前だ。予選が始まってから4時間以上かかることも稀ではない。もちろん全国大会でおいそれと優勝できるものではないけれど、勝ち進んだ時のことを考えて、スタミナをどう持続するか、エネルギーをどう補給するか、というのは最近出てきた課題である。
 娘は、予選を終えて本選の前にチョコレートを食べているが、それでは一瞬しかエネルギー補給できないからダメだとコーチに言われている。すぐに吸収されて腹持ちもいいバナナを勧められるが、娘はバナナが大嫌い。同じクラブに、やはりバナナが嫌いな先輩がいるのだが、その子は試合の時だけは仕方なくバナナを食べるそうだ。
「だから、今ではバナナ食べると闘志が湧くの」
 と、彼女は言う。
 ウチの娘にも我慢してバナナを食べてもらいたいが、頑なに拒む。そこまで嫌なものを無理強いするわけにもいかない。ナッツやビーフジャーキーなどもいいね、とコーチに言われ、最近はアーモンド入りのチョコレートを用意しておくことにした。
 もうひとつコーチに勧められたのが、ピクルスジュース。
 ヤクルトぐらいの小さな容器に入ったその液体は、キュウリのピクルスを漬けていた液だ。こちらはエネルギーには関係ないが、これを飲んでおくと筋肉がつらなくなるとかで、マラソンランナー御用達のドリンクらしい。ちょっと飲んでみたところ、ホントにただの酸っぱいピクルス液である。たいしておいしい代物ではない。
 娘は、これをおいしいと言って喜んで飲む。毎回、試合のたびに楽しみにしているふうさえある。今ではケースで買って、常備している。
 バナナのほうが、よっぽどおいしいと思うのだが。
 
9月某日
 この夏、周りの人から「フェンシングやりなよ」としきりに勧められた。コーチたちは商売だから熱心に勧めるのもわかるのだが、娘のチームメイトの親たちや、しまいには夫までが「やればいいのに」と言い出した。私の知らないところで口裏を合わせているのか? いったい何のために?
 でもまあ運動不足なのは否めず、性格からしてクラスにでも参加しないとすぐにだらけてしまうのはわかっている。「最初の一カ月は半額にするから」という売り文句につられて、フェンシングの初心者クラスに参加することにした。
 利き腕と同じ足を前に、後ろ足はそれに対して90度。膝を軽く曲げ、セイバー(剣――日本ではサーブルという)は心持ち体の外側を守るように構える。セイバーの先は上向き。
 前進するときには、足を交互に前に出してはいけない。私の場合は、右足が常に前だ。小さな歩幅で前に進み、剣で相手を突く。セイバーという種目では、マスクと上半身を突いたらポイントになる。早いだけではダメで、優先権があったかとか、前進しながら突いていたかとか、そういうこともどちらのポイントになるかに関係するらしい。5年も娘の試合を見てきたのに、実はルールが未だによくわかっていない。
 反射神経の世界だから、とにかく体に動きを覚え込ませるのが大事なようである。もともと運動神経が鈍いところへもってきて、年を取って何でも覚えるのに時間がかかるようになっているのだから、上達への道は遠いとみた。
 おまけに私は、先端恐怖症気味なのである。尖ったものがこちらを向いている、というのが苦手で、鉛筆さえ嫌だ。ウェポン(武器)と呼ばれるセイバーが始終こちらを向いているスポーツなぞ、できるようになるのだろうか。
 もう一つ苦手なのは、狭いところ。閉所恐怖症気味でもある。マスクを被ると、「囲まれてる」という感じがしてウッとなる。これも克服できるのかどうか。
 マスクについては、もっと切実な問題がある。始めたばかりの私はまだ自分のマスクを持っておらず、クラブにあるもの(いろんな人が散々使ってきた)を使うか、あるいは娘のマスクを使うか、という選択肢しかない。
 娘のマスクのほうがまだいいかと思って使っているのだが、私の参加するクラスは娘の練習が終わってからなのである。マスクは娘の汗でしっとり……。
 マスク($80ぐらい)だけは自分のを買おうかなと思いつつ、買ったら簡単には辞められなくなりそうで、二の足を踏んでいる。


著者プロフィール

大石洋子(おおいし・ようこ)
アメリカ在住のエッセイスト。上智大学文学部ドイツ文学科卒。1993年、夫の海外赴任でアメリカ・ニュージャージー州へ。2003年には異動のためにオレゴン州に転居。現在は、日に日に生意気になる娘に手を焼くかたわら、本Boiled Eggs Onlineの連載と、ENGLISH JOURNAL(アルク)の「オレゴン12カ月」でオレゴンでの生活をつづる。

オレゴン州:
全米屈指の美しい景観を誇るアメリカ西海岸の州。IT、バイオテクノロジー、環境関連企業の成長が目覚ましい。ナイキなどのスポーツ企業も多い。州都はセイラム。最大の都市は人口約60万のポートランド。

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