アメリカのおいしい生活
3月
7日月曜日

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  #47  さよならギルじいさん
 
 

 この時期のポートランドは連日雨のはずなのに、今シーズンは雨がめっきり少なくて暖かい。先週などは、摂氏十六度近くまで気温が上がった日が何日もあり、庭先に海水パンツ一丁で寝そべって日光浴をしている人を見かけたりした。寒がりの私でさえも、半袖セーター、素足にミュールで買い物に出かけたくらい。晩春、いや夏間近といってもいいほどの暖かさだった。
 暖かいのは喜ばしいことだが、異常気象なので心の底から楽しむことができない。地球温暖化のせいだろうか、と空恐ろしい。それに、うららかな陽気を満喫してしまったあとにいつもの長雨が戻ってきたら、そのあまりの落差に気分がどどーんと沈み込むだろうなあ、という危惧もある。いまここにある幸せを楽しめばいいのに、いつまた雨が戻ってくるかと気がかりで、頭のなかには、ジョーズのあの「来るぞ、来るぞ」という不気味な音楽が流れている。
 
 お向かいのジョンのバースデーパーティーに呼ばれた。五十歳になったそうだ。招待状には、ジョンが二、三歳くらいのころの写真――ベージュの分厚いコートに、赤や青の大きなビーズのついた首飾りをして立っている――が印刷されていて、「いつのまにこんなに時間が経っちゃったんでしょうね」と書かれていた。
 パーティーの当日、「来てくれてありがとう」と私たちを迎えたジョンの胸にも同じ写真が貼ってあり、そして首には写真のと似たような首飾りが。ジョンの家の裏手に住むナンシーが、このパーティーのためにわざわざ、写真の首飾りの複製を作ったのだそうだ。
 ビル・ゲイツにちょっと似ているジョンは、謎の人物だ。ホリデーになると、必ずといっていいほど、妻のキャリルと十四歳の娘のコーリーと犬のモクシーを連れて旅行に出かけて四、五日戻ってこない。それに、金曜日には毎週といっていいほど彼の車は一日中ガレージにあって、犬を散歩させていたり、「エクササイズだ」とかいいながら、近くの林のなかで木に絡まりついたアイビーを切り落とす作業をしたりしている。
 たしかガス会社でエンジニアをしていると聞いた。

会社に行っていないように

見える日があまりにも多いので、思わず「家でも仕事してるの?」と訊いたことがあるのだが、「いや、ダウンタウンのオフィスで働いてる」という答えが返ってきた。妻は働いている様子がない。よその家のことだからどうでもいいとはいえ、謎だ。ビル・ゲイツなのだろうか。
「僕の孫娘、見たことあったっけ?」
 パーティーに来た人たちに満遍なく声をかけていたジョンが、夫と私のところに来て、言った。
 ジョンには、まえの奥さんとのあいだに三十歳近くなる息子がいるということは知っていた。その息子に子供がいる――つまりジョンに孫がいる、というのも聞いたことがある。ずいぶん若いおじいさんだよね、と言ったら、「えへへ」と笑っていた。
 孫娘はまだ見たことがない、と答えると、ジョンは、「来なよ。見せてあげる」と言って、ベースメント(地下室)へと案内してくれた。途中の階段の壁には、小さな男の子の写真が何枚も飾ってある。
「あ、これはね、キャリルの息子のショーンだよ。会ったことあったっけ?」
 妻のキャリルにも、まえの夫とのあいだに子供がいる。ショーンはもう成人しているらしく、彼らと一緒には住んでいない。
 明るいベースメントには子供たちがたくさんいて、ゲームをしたり、テレビを見ていたり。その隅っこで、ジョンの娘のコーリーとその友だちが、ジョンの二歳になる孫娘と遊んでいた。くるくるの巻き毛がかわいらしいその女の子は、一歳になる私たちの娘を見て顔をほころばせた。
「キミんとこは、まだ孫はいないの?」
 ジョンは私の夫に訊いた。ウチの夫にも、前妻とのあいだに成人した娘と息子がいるのだ。
「いや、まだ。いても不思議じゃないけどね。まあ、孫よりもこの子が先にできてよかったよ」
 夫は、娘を指差しながら言った。ジョンは、
「あははー、そうだよな。孫より自分の子供のほうが小さいなんてなー。……あ、待てよ、ウチのコーリーには年上の姪がいるんだよ」
 ジョンの前妻はジョンと結婚した時点で子連れだったので、ジョンが二度目の結婚でコーリーを授かるよりも、その子供(ジョンにとっては義理の子供)が大きくなって子供を設けたほうが先だったらしい。
 なにがなんだかわからなくなってきたが、そんなわけで、義理の関係ではあるけれど、ジョンには自分の子供よりも年が上の孫がいるそうだ。アメリカ人の家族関係はときに複雑で、聞いているうちに話の筋を追えなくなることも少なくない。そんな複雑さにはもうちっとも驚かないけれど、義理の家族の間にけっこうな行き来があって、仲良くやっているように見えるのには――もちろん傍からそう見えるだけで、実は内部ではいろいろと渦巻いているのかもしれないが――いまだに新鮮な驚きがある。
 
 室内プレイグラウンドみたいだったベースメントから一階のリヴィングに戻って、紙のプレートに盛ったサンドイッチやらパスタサラダやらを食べていたら、ウチの隣に住むシリーンが「ハーイ」と寄ってきた。白いタートルネックの首元には、小さな黒い毛糸玉が連なったようなマフラー。私よりひとつ年上で、いつもファッショナブルな彼女には、十二歳と八歳の娘がいる。
「あのね、ギルが引っ越すのよ」
 ひとしきり私の娘の相手をしたあと、シリーンはいきなり言った。ギルとは、シリーンの夫であるマットの父親。つまり、彼女にとっては義父である。
 八十八歳のギルじいさんが息子夫婦の家を出て行くということは、どこか具合が悪くなって施設に入るということなのだろうか――思わず顔を曇らせた私を見て、シリーンは、
「違うの、違うの。いいことなのよ」
 と言った。ギルじいさんの友だちが住む老人用のアパートに空きが出たので、そこに移るのだそうだ。
「いいアパートだし、友だちもたくさんできるだろうし。ギルは今よりも自由になれるからいいと思うのよ」
 年寄り用の工夫や配慮がされているアパートとはいえ、九十歳に近いじいさんがこれからひとり暮らしというのがそんなに「いいこと」なのだろうか、と思いつつ聞いていたところ、シリーンは言った。
「ギルはお酒をたくさん飲むの。正直なところ、私は娘たちに酔ったギルの姿を見せるのが嫌なのよ。それに、酔って娘たちにいろいろ言ったりするし。私は、そういう環境で娘たちを育てたくないの。だから去年、マットに言ったのよ。『これから半年のあいだに、ギルの住む場所を探すように』って」
 夕方など遅い時間に会ったときに、ギルの息が酒臭いことが

これまでに何度かあった

のを思い出した。ギルじいさんがどれほど飲むのかはわからないし、酔って孫娘たちにどんなことを言うのかも知らないけれど――普段の温厚なギルからは、悪態をついたり、いやらしいことを言ったりとかいうのはちょっと想像がつかない――なんとなくシリーンの肩を持つ気にもなれず、ふん、ふん、と聞くにとどめた。
 
 それからしばらくして、家の近所を散歩していたら、赤いフォードが坂道を上がってきた。ギルじいさんの車だ。
「ヨウキ、元気だった?」
 日本人の名まえはすべて「イ段」で終わると思っているのか、ギルじいさんは私のことを「ヨウキ」、私の娘のことを「メギ」と呼ぶ。覚えやすいようにと思って、「メグと呼んでください」と言ったのだが、なぜか「メギ」になってしまった。
 春めいた陽気にもかかわらずぶ厚いセーターを着込んだギルじいさんは、運転席の窓から私に言った。
「ヨウキ、私はもうすぐあの家から出て行くんだよ」
「シリーンから聞きました。いつ?」
「あと二、三週間くらいで。アパートに引っ越すんだよ」
「ここから遠いの?」
「いや、十五分くらいかな。隣町だ」
 じいさんの様子が、思いのほか明るかったので、私は少しほっとした。
「引っ越して行っても、またちょくちょくここには顔を出すんでしょ?」
「ああ。来るよ」
「じゃ、お別れってわけじゃありませんね。アパートにも、遊びに行きますよ」
「ああ、そうだね。狭いけれど、自分の部屋だから、自分の好きなときに人をもてなすことができる」
 晴れ晴れと言ったじいさんは、そのあと、私の目をじっと見て、
「ヨウキ、この引越しの件に関してはね、私はちょっと複雑な思いなんだ」
 と言った。ひとり暮らしの気ままさが手に入る一方で、家族から――いまひとつ嫁とは折り合いが悪いとはいえ――離れて暮らすのは、やはり寂しいのだろう。胸が詰まった。
「わかる気がします」
 私がやっとそう言うと、ギルじいさんは、
「わかるかね」
 一瞬、寂しげな表情を見せた。
 が、次の瞬間、じいさんの顔はぱっと明るくなって、
「まあ、そんなこんなでいろいろあるから、酒でも飲むか、ってウォッカを買いに行くところだよ。じゃあまたね」
 赤いフォードは走り去ったのであった。

 
 
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