アメリカのおいしい生活
4月
7日月曜日

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  #5  雨の晴れ間の花見
 
 

 よく雨が降る。
 ポートランドに引っ越してきてからというもの、天気に気分を左右されやすいウチの夫には、天気のことで不満をいうのを禁じている。そばで雨のことをぶつぶついわれると、たいして気になっていなかったはずのこっちの気まで滅入ってくるからだ。これまでのところは約束をけっこう律儀に守っていた夫だったのだが、先週、ついに爆発した。
「あぁ、また雨だ。いい加減にしてくれぇぇ」
「それは言わない約束でしょ!」
「もう我慢できないぃ」
 夫の気持ちがわからないではない。三月は、月初から二十七日まで毎日ずっと雨の降る日が続いたのだから。新聞の向こう五日間の予報はすべて雨マークで、日付だけが変わっていった。したがって三月全体では、雨の降らなかった日はたったの三日。残りの日は、ざーざーだったりしとしとだったり、なんらかの形で雨が降った。

「この、ぼろ天気」

 三年前に亡くなった母の口癖を真似て、夫は空に向かって毒づくのである。
 わからないのは、オレゴンの人たちだ。こんなに連日雨が降っているのに、この冬はドライだと言い張るのである。このままじゃ夏には水不足になるんじゃないか、と心配さえしているようだ。
 しかし、である。新聞の天気の欄を見てみると、この三月のポートランドの降雨量は五・七四インチで、平年の三・七一インチよりもはるかに多い。今年の初めから三カ月ということで見ても、平年より三インチ弱も余計に雨が降っているのだ。
 この冬はドライだというのを聞くたびに、普段の冬はもっともっと雨が降るのかと絶望的な気持ちになっていたので、このデータには救われた。が、なぜにオレゴニアンたちはこんなびしょびしょの冬を「ドライ」などと表現するのだ?
 どうやら、一月半ばから二月半ばにかけて珍しく雨が降らなかったのが強烈な印象となって残っているらしい。雨期に気まぐれに訪れたドライな天気のせいで、それ以降、地元の人たちは「この冬はドライ」と決め込んでしまったようである。夫の会社にいるオレゴニアンいわく、冬のポートランドで何日間か連続して青空が見えるなどというのは、ちょっと異常なことなのだそうだ。そんなわけで彼らは、二カ月以上も前の異常気象のことをいまだにひきずっている。が、こちらとしては、一月の乾いた天気の記憶など、その後の雨でぐっしょりずぶ濡れなのである。もういい加減、ドライだなどと言い張るのはやめにしてもらいたい。
 
 三月最後の週末は珍しくいい天気だったので、お弁当を作って花見に出かけた。ウィラメット川沿いの公園に植えられた百本ほどの桜が、ちょうど満開だったのだ。
 桜の下の芝生にビーチタオルを敷いて座ったら、前々日までの雨がまだ乾いていなくてお尻が濡れた。でもまあ久しぶりの青空の下で食べるおむすびは格別の味わいであった。半袖くらいでちょうどの、まるで初夏のような陽気を精一杯楽しもうと外に繰り出してきた人々で公園はいっぱいだった。川沿いの道で犬を散歩させたり、自転車に乗ったり、ジョギングをしたり。ベンチに腰掛けて静かに花を愛でるカップルがいるかと思うと、散り始めた花びらを追いかける幼い女の子あり、湿っているのも構わず芝生の上にごろりと寝そべる人もあり。
 この公園はウォーターフロントパークというのだが、桜が植わった北のほうの一角は、ジャパニーズアメリカン・ヒストリカルプラザと名づけられている。第二次世界大戦中に収容所に送られた日系アメリカ人たちのような悲劇を二度と繰り返すことがないようにという思いを込め、一九九〇年に作られた公園である。
 ポートランドの街を東西に分けるウィラメット川と、南北に分けるバーンサイドストリートがちょうど交差するあたりに位置するこの公園の少し北側に、戦前には「日本町」があったそうだ。四十二ブロックに渡った街には、日系人の経営する店が百十九もあったというのだが、その面影は今はまるでない。財産のすべてを放棄させられて収容所に赴かねばならなかった日系人たちの多くは、解放されたあと、ポートランドに戻ってくることはなかったそうである。
 ほかのアメリカ人とまったく変わることがないのに日系人だからという理由だけで収容所に送られた人々の怒りや悲しみは、一九九九年に公開された「ヒマラヤ杉に降る雪」に描かれている。アメリカが過去に犯した過ちをハリウッドが正面から取り上げたことが話題になった作品だ。工藤夕貴主演のこの映画は、ポートランドよりももう少し北の、ワシントン州ピュージェット湾沿いの地域が舞台。第二次大戦中には、オレゴン、カリフォルニア、ワシントンの三州に住んでいた十一万人以上もの日系人がキャンプに強制収容されたという。現アメリカ運輸長官で日系のノーマン・ミネタも、子供のころに家族と共にキャンプ暮らしを強いられたそうである。
 日本のソメイヨシノよりもすこしピンクが濃い桜を見ながら、戦争によってもたらされた不条理に巻き込まれた不運な日系人のことを考えていたところ、そういえばオレゴンにはもうひとつ戦争の傷跡があるという話を思い出した。第二次大戦中、日本軍による攻撃によってオレゴンで死者が出たという話。
 アメリカは九月十一日の事件以前には本土を攻撃されたことがない、というのがよくいわれることだから、日本軍の攻撃でアメリカ市民に死者、というのを初めて聞いたときには耳を疑った。が、しばらくして、思い当たったのだ。

風船爆弾

である。
 正式名称を「ふ号兵器」(風船の「ふ」?)というこの爆弾のことは、窮地に追い込まれた日本軍が苦肉の策でひねり出した、机上の空論的な兵器なのだとばかり思っていた。が、実は、千葉、茨城、福島の海岸から打ち上げられた九千発のうち、約一割がアメリカ本土に到達したといわれている。多くは西側の地域で発見されたが、東部のデトロイトまで飛んできたものもあったとか。
 その「ふ号兵器」がアメリカ人犠牲者を出したのは、オレゴンの南、ほとんどカリフォルニアとの州ざかいに近い山中。ピクニックに来ていた女性と子供たちが見つけ、何だかわからずに引きずったりしているうちに爆発して、六人全員が亡くなったそうだ。
 ジェット気流に乗って日米間の八千キロを、二、三日で横断した(時速はおよそ二百キロ)という風船爆弾は、私が考えていたよりもずっと緻密に作られた兵器だということがわかって驚くのだが、しかしそれでも、風まかせなどという他力本願な爆弾を編み出してまで戦うというのは狂気の沙汰である。戦局不利でなりふり構わずということだったのだろうが、戦争とは人の判断力を狂わせるものだ。戦時中、アメリカ人が強制キャンプに日系人を収容したのも、戦争がもたらしたヒステリアにほかならない。
 そして今もまた、戦争中。
 イラク攻撃まえには、「フレンチ・フライ改めフリーダム・フライ」などというお門違いの、ほとんどジョークのようなヒステリアがアメリカの一部に沸き起こったけれど、幸い、イラク系あるいはアラブ系アメリカ人を排斥したりするようなとんでもない事態には至っていない。
 雨続きの鬱々とした日々にひょっこりと舞い込んできた奇跡のような晴天も三日間で終わり、またびしょびしょの天気に逆戻りした。川沿いの公園の桜は、もうとっくに散ってしまった。

 

 

 
今週の2枚

川沿いの公園にて。

寝そべる人もあり。
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Photo: (c) Yoko Oishi
 
Copyright 2003 by Yoko Oishi, Boiled Eggs Ltd. All rights reserved.