子供より親が大事、と思いたい。
太宰治の「桜桃」の書き出しだ。
小さな子供がたくさんいる家から逃げるように父親が酒場に向かう。そこで、宝石のように美しいさくらんぼが出る。桜桃など見たこともない子供たちが目にしたらさぞや喜ぶだろう――そう思いながら、父親は黙々とさくらんぼを口に運ぶ。
私が読んだのは、高校生のころ。子供と暮らすのがどんなことだか想像もつかなかったころだったのに、なぜか、「そうだ、そうだ、子供より親が大事なんだ」と膝を打ちながら呼んだ記憶がある。
二十数年経って、一歳三カ月になる娘と日々暮らしていると、そんな言葉はすっかり忘れてしまって子供中心の生活になっている。が、あるときにふっとその言葉を思い出す。思い出すと矢も盾もたまらない。それで、脱走する。
いや、いきなり子供を置いて家から逃げ出すのは無理だ。いくらなんでも。だから少しまえから計画し、子供の相手をしてくれる人の算段をつけて、飛び出していく。
先日は、
レニー・クラヴィッツのコンサート
に行った。大ファンというわけではない。アルバムを全部持っているというわけでもない。ただなんとなく、ポートランドに来るんだったら行ってみようか。そんな感じ。家を出るための口実というだけかもしれない。子供は、夫に見てもらうことにした。
チケットには八時に始まるとあったので、夕飯を済ませて、七時半に家を出た。遅れたかな、と思ったら前座のアーチストがいて、結局、本命のレニーが出てきたのは九時四十分だった。
チケットにそう書いてくれていたら、子供を寝かしつけてから出てくることだってできたのに――前座が終わってレニーが出てくるまでのあいだ、ひとり口を尖らせてぶらぶら歩いていたら、「ビールおごってあげるよ」とどこかのおっちゃんが声をかけてきた。束の間のシングル気分を盛り上げてくれてありがとう。丁重にお断りした。
聴衆を待たせに待たせて出てきたレニーは、ひっくり返るほどよかった。Electric Church Tourと銘打ったコンサートは、そのタイトル通り、ちょっと宗教っぽい味付けがしてあった。アメリカ南部のほうの教会によくある、信者が熱狂的に歌う集会というか、ちょっと危うい新興宗教の集まりというか。そういう演出のせいなのだろうが、「これはショウではない。祝福なのです。今夜、みんなで祝福するのです」などと言っているレニーを見ていると、「カリスマ」という言葉が太いゴシック体で頭に浮かんでくるのであった。
コンサートをよりよく楽しむには席のよしあしも大きく関係するわけだが、これがまた、今回は最高だった。普段はクラシックをやっているような小さな会場の、二階席の最前列。二階席が一階席にほぼかぶさるようにせり出しているので、両眼の視力が一・五の私にとっては、ほとんどかぶりつき状態。レニーの腕の刺青までよく見えた。
席もいいし、レニーもカッコいいし――完璧と思われるコンサートに水を差したのは、私の隣の観客であった。両隣とも、相撲取り級の体格。
飛行機や劇場の席で肘掛を隣の人(たいてい太っている人)に占領されるのはいつものことなので、もう慣れっこだ。一度など、私がかけていた肘を無言で押されて、肘掛を取られたこともある。まるで波にさらわれた感じ。文句を言う気にもなれなかった。だいたい、アメリカ人のホントに太った人の横幅と席の幅とを考えれば、物理的に腕がはみ出してしまうのだ。仕方がないことではある。
だからまあ、体格はどうでもいい。両側から威圧感はひしひしと感じるけれど。困ったのは、匂い。右隣の若い男が、匂うのだ。
安手のコロンとタバコが混ざった匂い。息からは酒の匂いも。そして、ノースリーブのシャツといういでたちでけっこう激しく動くので、体臭も混ざっていると思われる。連れの男(スポーツ刈りのちょっと伸びたようなのを、モヒカン風に固めている)とふたり、よっぽどのファンなのだろう。レニーがこちらの方角に目をやるたび、女の子みたいに口に手をやって「キャーッ」と喜んでいる。
まあ、体格は仕方がないし、匂いにも目をつぶろう。私がどうしても許せないのは、この太っちょの男が、ステージでの演奏に合わせて、即興のドラマーになったりギタリストになったりすることだ。
ギターソロに合わせてギターをかき鳴らす素振りを見せたかと思うと、ドラムの音が響くや、彼はすぐさまギターをスティックに持ち替えて、想像上のドラムだのシンバルだのを叩く。ああ忙しい。
コンサート会場で私がいちばん隣に来てほしくないタイプである。天を仰いで陶酔しきった様子が、なんともカッコ悪い。傍で見ている私のほうがこっ恥ずかしくて、背中がむずむずしてくる。こういう人って、実際にその楽器が弾けるのだろうか。弾けるなら許す、ということでは決してないが、弾けないならカッコ悪さは倍増だ。
なるべく右の太っちょを視界に入れないようにして、ステージに集中する。
レニー・クラヴィッツのよさはいろいろあるが、私がいちばん感心したのは、彼のショーマンシップである。自分が「見世物」であることをよく知っていて、客を楽しませようと一生懸命だ。
少しまえのインタビューで、彼がこう言っているのを読んだ。
「自分の昔のヒット曲をコンサートで演奏しないアーチストもいるけれど、僕は違う。お客さんがなにを聴きたいかわかってるから。それに、みんながよく知っている曲をすっかりアレンジしちゃってまったく違う曲みたいに演奏する人がいるけど、僕はレコードに録音したとおり、つまり、みんなが知っている形で演奏するよう心がけている」
たしかに、コンサートで聴きたいなあと思って待っていた曲が(そしてそういう曲はたいていヒット曲だ)、まったく原型をとどめないような形にアレンジされて演奏されると、本当にガックリくるものだ。何百回も同じ曲を演奏し続けるのに飽きてしまう気持ちはわからないでもないが、アーチストのひとりよがりを見せつけられている気がしてしらける。「なにひとりでクールぶってるんだよ」と文句を言いたくなる。
思えば、十五年まえくらいにも、東京の武道館でレニー・クラヴィッツのコンサートを見たことがあった。たぶん、彼の初めてのツアーだったと思う。そのときは、特に印象に残らない普通のコンサートだったと記憶しているが、今回のは、演奏から照明からレニーの身のこなしに至るまで、どかーんという感じであった。デビューして十六年。彼の、アーチストとして、というかショーマンとしての成長ぶりを見た思いがした。
二回のアンコールもしっかり見届けて、コンサートが終わったのは、十一時半すぎ。ああ楽しかった。
激しい雨の中を家に戻ったら、娘は寝ていた。夫は、気難しい顔をして新聞を読んでいた。娘を寝かせるのに相当てこずったらしい。
罪悪感に苛まれつつも、コンサートの興奮が抜けきらない。
子供より親が大事。
ずっと昔に読んだ言葉が、呪文のように頭に浮かぶ。
子供たちに見せたら喜ぶだろうと思いながらさくらんぼを酒場で食べていた太宰は、結局どうしたろうか、と思うのだ。
あんがい、自分の食べた残りを子供たち用に包んでもらったりしたのではなかろうか。この「桜桃」という作品のなかで太宰は、「子供より親が大事、と思いたい」と繰り返す。一度だけ、「子供より親が大事」と言い切ってみるが、それも、「虚勢みたいに呟く」という具合。実際のところは、子供より親が大事、と「思いたい」のに思うことができず、
そんな自分に焦れて
いたのではないだろうか。
私も、コンサートから帰ったその晩は、興奮を鎮めなくちゃ、などとワインを飲んだりしてはしゃいだが(夫は先に寝た)、翌朝目が覚めたら、すっかりまた子供中心の生活に戻ってしまった。
しかもなにを血迷ったか――脱走してコンサートなど見に行った罪滅ぼしのつもりか――「セサミストリート・ライブ」などという催し物に娘を連れて行ってしまった。エルモだのビッグバードだの、セサミに登場するモンスターたちが、歌って踊るというイベントだ。会場には、子供がうじゃうじゃいた。
ステージで踊る色とりどりの着ぐるみたちを見ながら、ほんの二日前に見たレニー・クラヴィッツとのあまりの違いにため息が出た。が、娘がエルモを指差してはしゃいでいるのを見ると、それはそれで心が躍る。子供より親が大事――と、言い切れないのは、私も同じか。
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