アメリカのおいしい生活
6月
20日月曜日

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  #54  オススメ肛門科医
 
 

 日曜日、娘を連れて外出して家に戻ったら、夫が脛にタオルを巻いてソファに座っていた。
「ケガした」
 野球のゲームで痛めたという。その日は、四十歳以上リーグの開幕戦の日だ、とはりきって出かけたのだった(前の晩は興奮してしまって、よく眠れなかったらしい)。
 ヒットを打って走り出したら、右足のふくらはぎにゴーンという衝撃が走った。それでもなんとか足を止めずに一塁までたどり着いたが、そのあとしばらく歩けなくなってしまったのだそうだ。家に戻って、冷凍庫にあったアイスパックで冷やしていたとのこと。
「痛いの?」
「痛い。肉離れかも」
 夫は、くしゃくしゃに顔をしかめた。ちょっと必要以上じゃないか、というくらいに。
「でも車に乗って帰ってきたんでしょ? マニュアルの車を運転して帰ってこられたくらいだから、たいしたことないんじゃないの?」
「なにいってるんだよ。すっごく痛いんだよ。歩けないんだから」
 すっごく、の部分に力が入っている。歩けない、って、じゃあどうやって冷凍庫からアイスパックを取り出してきてソファまで歩いていったんですかね、と思うわけだが、まあこれ以上言っても無駄なので、放っておく。心配してもらいたくて大げさに言うのは、子供とまったく同じである。
 週末にスポーツをやる人を、

Weekend Warrior

と呼ぶ。週末の戦士、といえば聞こえはいいが、まあ要するに、普段あまり体を動かさないのに休みのときだけはりきってスポーツに興じる人を揶揄する言葉である。週末の救急治療室は、ケガをした「戦士」たちで、けっこう混みあうそうだ。
 夫は、月曜の夜に救急治療室へ行った。
「やっぱり肉離れでしょう、だって」
 英語ではa pulled muscleというのだそうだ。
「で、なにか薬はもらってきたの?」
「いや、なにも。血の塊ができていないかどうか超音波で調べてもらって、それだけ」
 肉離れかもしれないなあ、と医者に診てもらい、そうです、肉離れです、と言われて帰ってきただけ。ERで三時間近く待たされたというのに、甲斐のないことである。医者のほうも、気休めでも、受診の記念でもなんでもいいから、湿布薬のひとつも出してくれればよさそうなものを。
「今度の日曜のゲームには出られそうもないなあ。ついにDL(disabled list=故障者リスト)入りか? いや、驚異の回復力で、なんとかDHとして出させてもらおうか」
 ちょうどケガでDH出場しているヤンキースの松井を引き合いに出し、自分も彼みたいに活躍できるのでは、などと言っている。
 ERで薬が出なかったのは、もしや、つける薬がないってことか?
 
 医者といえば、最近、私は肛門科のお世話になっている。
 こんなことをこんなところで告白してしまっていいのだろうか、という気もする。しかし、肛門もほかの部位と同じ、大切な体の器官なのだ。眼科に通っている、というのがちっとも恥ずかしくなくて、肛門科だけ恥ずかしいというのもおかしな話だ……などと、気色ばむのも不自然か。まあ、初体験だったもので、黙っていられないのだ。
 問題は、痒みであった。いつごろから痒くなったのかは思い出せないが、去年の年末にシアトルに遊びに行ったころにすでに困っていたのは覚えているので、そのころからか。
 メンソレータム、オロナインに始まり、娘のおむつかぶれ用の軟膏まで試してみたが改善しない。もはやこれまで、と医者を探して――女医を見つけた――予約を取るべく電話したのが、先月初め。
「いちばん早い予約は三週間先ですね」 
「うそー! なんとかもっと早く診てもらえませんか?」
 それまでにもう何カ月も素人療法でがんばってきたくせに、いったん医者に電話すると、一刻の猶予もならん、という感じになる。
「ええと……ああ、来週の月曜なら空いてますが」
 それを先に言ってよ、と思いつつ、予約を取る。
「では、診察の二時間前に、enemaをしてきてくださいね」
「えっ? なんですって?」
「enemaです」
「スペルをお願いします」
初めて耳にしたその言葉は、あとで調べてみたら、浣腸のことであった。「e-n-e……」と、笑いもせずに淡々とスペルを教えてくれた受付の人に感謝。
「ねー、知ってる? enemaって言葉」
 夫に訊いたところ、
「あ、知ってる。浣腸だろ」
「なんでそんな言葉知ってるの!?」 
 猫や子供を医者に連れて行く関係上、医療関係の言葉はたいてい私のほうがよく知っているので、驚いた。
「学生のときに冗談半分で調べて、そのまま覚えてる」
 若いころにエッチな言葉や汚い言葉を辞書で調べた覚えは私にもあるが、夫が「浣腸」まで調べていた(しかもそれを今の今まで覚えている)というのは、なんだかおかしかった。
 ドクター・カヴァナーは、四十代前半くらいの、背の高い女性であった。金髪のウェービーな髪に、白い細面の顔。化粧けはない。初対面の挨拶をしたあと、
「さてと。どうして今日あなたが肛門科に来ているのか、教えてください。いえ、大丈夫。この部屋にはあなたと私しかいないし、ほかに秘密は漏らしませんから、安心して話して」
 私が症状を訴えると、いろいろと質問してきたあとで――家族の病歴とか、最近、環境に変化はなかったかとか――「では、ちょっと診せてください」と言って、ドクターは診察室から出た。そのあいだに私は腰から下に身に着けているものを脱ぎ、用意された紙製のシーツを巻きつけた。
 部屋に戻ってきたドクターが診察をした。恥ずかしいといえば恥ずかしいが、私はもともと医者に対してはまな板の鯉という考えである。それに、出産を経験すると、たいていのことはどうでもよくなってしまう。
 診察を終えたドクター・カヴァナーは私を診察台の上に座らせてから、紙に図を描いて説明を始めた。大文字のCを線対称にしたようなところの真ん中に、ぐるりと丸をひとつ。
「こっちが右で、こっちが左ね。あなたの場合は、この辺に痔の予備軍があって、そしてこの辺りの皮膚が――掻いちゃったせいかしら、ちょっと傷ができてます」
 ドクターの低い声は、狭い部屋のなかでよく響いた。アメリカ人には珍しく抑揚のない英語なのだが、無愛想という感じではない。いや、それどころか、ちょっと楽しそうなのだ。
「病名はね、Pruritus Ani」
「えっ、こんなのに名まえなんかあるんですか」
「そう。単に『痒い肛門』って意味なんだけどね」 
 高い診察台に足をぶらぶらさせて座っている私と、床に置いてある低い丸椅子に座っているドクター。ちょうど階段の一段違いくらいに隣りあわせで座っているような格好なのだが、ドクター・カヴァナーは、いろいろと説明しながら、膝に置いた私の手の甲を、時おり自分の手の甲で軽く叩く。「ねえねえ」とか「ほらほら」とかいう感じの、ちょっと打ち解けた仕種である。慣れた手つきで図まで描いて見せることといい、この仕種といい、なんだか自分の仕事が楽しくて仕方がない、というふうである。
「とにかく、患部をドライに保つことがポイントなんです。コットンを小さく切ったものに、コーンスターチ――ベビーパウダーでもいいけど、香料が入っていたりするとそれも刺激になるかもしれないから、普通のコーンスターチがいいですね、キッチンに、あるでしょ?――を少し振りかけたものを、患部につけてみてください」
 コーンスターチ、と言ったところでまた、私の手の甲を叩く。
「外から見えないだけでね、そんなふうに

お尻にコットンくっつけて歩いている人

が、ポートランドの街にはけっこうたくさんいるんですよ。この診察室を出てった人は、みんなそうですから」
 ドクター・カヴァナーは、また私の手を「ほらほら」とでもいうように叩いた。
 こんなに楽しそうに仕事している人に会ったのは、初めてといってもいいくらいだ。人の命にも関わる職業だから気は抜けないだろうし、それに診る部位が部位だけに、いろいろと大変なことも多そうなのに(診察のとき、ドクターがお尻にガーゼを当て、「トイレでいきむときみたいに、ちょっと力を入れてみてください。恥ずかしがらずに。ガスが出ようがなにが出ようが、私が受け止めますから、大丈夫」という場面があった。つくづく大変な仕事と推察する)。
 二度の診療を受けて、だいぶ改善はみられたが、まだ完治には至らない。次の予約は、一カ月後。またドクター・カヴァナーの楽しげな仕事ぶりを見るのがなんとなく待ち遠しい。友だちや知り合いにぜひとも紹介したいドクターだが、だれともお尻の悩みについて話すことはないので、オススメするチャンスがない。とても残念である。

 
 
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