アメリカのおいしい生活
9月
19日月曜日

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  #59  花いちもんめ
 
 

 朝晩の気温が低くなってきた。半袖を着ようか、それとも薄い長袖を着ようか、迷う。
 近くのワイナリーにあるブドウ畑では、黄緑色の葉の下に、ほとんど黒に近い色をしたブドウがいくつもぶら下がっている。
 二日ぶりに開いた郵便受けには、早くもクリスマス商戦を当て込んだカタログ――洋服、インテリアから子供のおもちゃまで――が、ぎゅうぎゅうに詰まっている。
 いつのまにか、すっかり秋だ。
 
 茨城にいる母に電話をした。
 母は、挨拶もそこそこに、家の話を始めた。
「たまたま不動産屋から葉書が来ていたから、どこかもう少し足の便のいいところに小さいマンションないかしらって、聞いてみたのよ」
 私の両親は、以前は都心に近いところにあるマンションに住んでいた。父が退職して、茨城(といっても千葉寄りの、成田から三十分のところ)に、大手住宅メーカーが建てた、

バリアフリーを謳い文句

にしたいわば老夫婦用の家を買って、移り住んだ。
 バリアフリーといっても、玄関に小さな手すりがついているとか、トイレの入り口に段差がないという程度のもの。そのメーカーが独自に開発したとかいう畳もどきの和室は、畳よりもずっと弱くて扱いがやっかいだし、浴室はでこぼこやパーツが多くて掃除が大変だし、訪れるたびに、「なにがバリアフリーだ」と言いたくなるような家である。
 その家に移ったのが六年ほどまえ。そして父が、肺がんと診断されてから一年も経たないうちに、去年の一月に亡くなった。
「でもね、やっぱり住み替えはやめた」
「どうして?」
「いま売ると、買ったときの値段よりずいぶん損するって言われたから」
 父が亡くなって以来、引越しは常に母の頭のなかにあった。車の運転をしない母には、足の便がひどく悪いのだ。
 年寄り向けのバリアフリー住宅は、病院こそ歩いて行かれる距離にあるが、あとは小さなコンビニエンスがあるきり。父が生きていたころには、「お父さん、クルマ出して」と頼めばあちこちに連れて行ってもらえたが、いまではスーパーに行くにも電車に乗るにも、一時間に一本あるかないかのバスを利用しなければならない。
「ずいぶん損するって……いくらぐらい?」
 私が恐る恐る訊くと、母は、
「一千万くらい」
 怒ったように言った。
 母が、引越そうかな、と言い出すたびに、私は「いいんじゃないの」と背中を押し続けてきた。足の便が悪いところでひとりちんと暮らしているよりは、たいていの用が徒歩で足せるようなところに住んだほうが、母の生活にハリが出るのではないかと思っているからだ。バリアフリー住宅がそんなに値下がりしていると聞いて一瞬ひるんだが、引っ越せばいいのに、という気持ちに変わりはない。
「一千万かあ……。でも、そこに住んでいたからって、そのお金がもらえるわけじゃないからねえ。その家を売ったお金でどこか足の便のいいところに住み替えられるなら、そのほうがいいんじゃないの? ちょっと高いけど、一千万で便利を買う、くらいのつもりでさ」
「そんなこと簡単に言うけど、それだけのお金を稼ぐのは大変なことなのよ」
 説教めいた口調で母は言った。若いころからお金に苦労してきた母は、お金のことになるとあっさり割り切ることができない性質だ。
「でもねえ、一千万円損するのがいやだから、って、不便で面白くもないところにがんばってるよりは、もっと楽に暮らせるところに移ったほうがいいんじゃない? お金の問題よりは、これから母さんがどう生きたいか、の問題だと思うよ」
 これ以上このことを私と話していても無駄だと思ったのか、母は適当な返事をして、話題をほかに移してしまった。
 あれこれと他愛のないことを話したあと、母との電話の最後は、きまって「アメリカに遊びにおいでよ」「まあ、いつかね」というやりとりになる。私がアメリカに暮らし始めて十二年になるが、母が遊びに来たのは、最初の年に二回だけ。オレゴンには、まだ来たことがない。
 母の住んでいるところから成田までは車で三十分なのだし、成田からポートランドまでの直行便も毎日出ているのだし、なにをためらうことがあるのか、と思う。だから、誘うのだ。
 母は、あるときは、飛行機が怖いという。またあるときは、飼っている二匹の猫を置いていけないという(母の住む地域で営業しているペットシッターをインターネットで見つけて教えたところ、母は、「留守中に他人が家に上がってくるのがいやだ」と断わった)。別のときには、英語ができないから道中が不安だという。また、こんなことをいったこともある。
「アナタの家に行っても私は車が運転できるわけでもないし、全部アナタたち夫婦におんぶにだっこで、あちこち連れて行ってもらわなければいけないでしょ。負担になりたくないから……」
 この件で母と話していると、花いちもんめを思い出す。
「お布団かぶってきておくれ」といえば、「お布団びりびり行かれない」。
「お釜かぶってきておくれ」といえば、「お釜底抜け行かれない」
 私はいらついて、「自分の娘と孫娘がどんなところに住んでいるのか見てみたい、なんて思ったりしないわけ?」と嫌味を言ってしまったこともある。
 母はいつも、
「まあそのうちね」
 力なく言うのだ。
 
 夏の終わりに、ケンさんとモイラが遊びに来た。
 ケンさんは、私たちがニュージャージーに住んでいたころの夫の部下で、イギリス人。部下といっても、年齢はずっと上で(だから敬意を表して「さん」付けで呼ぶ)、もう十年まえくらいにリタイアしている。いまは、同じくリタイアしたモイラとふたり、バーモントにあるセカンドハウスでのんびりしたり、イギリスに行っては家族や友だちと過ごしたり、という暮らし。今回は、サンフランシスコで親戚だか知人だかの息子のバーミツバー(ユダヤ教の成人式で、十三歳になると行われる)に出席した帰りに我が家に寄ってくれた。
 ポートランド空港で借りたフォードを走らせて、彼らはやってきた。
「ようこそ。変わらないですね」
「赤ん坊がすっかり大きくなって、見違えるようだねえ」
 ひとしきり久しぶりの挨拶をして、ケンさんとモイラを部屋に案内した。ケンさんは、
「それじゃあ、クルマからスーツケースを運び出すとしようかな」
 そう言って、玄関から出て行った。
 事件が起こったのは、そのときだった。
 ドライブウェイに停めたフォードから荷物を出そうとするケンさんを、私の娘が玄関のわきの窓から見たがったので、私もモイラも小さな窓に顔を近づけて見ていたのだ。すると、ケンさんの頭に、赤いものが見えた。血だった。
「どうしたの!?」
 頭を押さえて家に戻ってきたケンさんにペーパータオルを差し出しながら、モイラも私も慌てて訊いた。
「クルマのトランクのふたが勝手に下りてきて、頭にガーンと当たったんだ」
 生え際の少し後ろのあたりから、どんどん血が出て、止まらなかった。こういうの苦手なんだけど、と言いながらこわごわ覗き込んだモイラは、病院で縫ってもらわないとダメかも、と言った。
 それから私の運転で、近くの病院のERへ。ERの常で、受付を済ませてから、延々と待たされた。
 震える手で(ケンさんの手はいつも少し震えている)タオルにくるんだアイスパックで頭を押さえながら、待合室でケンさんは日付がとうに古くなったニューズウィークを読んだ。その隣でモイラは、西日に目を細めながら、窓の外にある人工の滝を眺めていた。
 私は、動き回りたい盛りの娘をどうにかこうにかあやして、なるべくケンさんのほうに行かないように、と配慮した。ときどき雑誌から目を上げて娘に向かって笑いかけていたケンさんは、少し不機嫌というか、怒っているように見えたのだ。うっかりミスで怪我をした自分に腹を立てているようにも見えた。が、それよりは、妻のモイラや私に世話をかけたことに――あるいはそこに

自分の老い

を感じたことに――憤っているように見えた。
「ホッチキスでね、パチン、パチン、パチンと。三針。それでおしまい」
 治療を済ませて戻ってきたケンさんは、夕食のときに明るく言った。上から見なければ、ケガしたことなどちっともわからない。医者もなにも言わなかったし、一本だけなら大丈夫、とか言いながら、ビールを飲んでいた。
「心配かけて悪かったけど――私たちの訪問を、ちょっとしたドラマから始めよう、と思ってね」
 ケンさんは、イギリス人らしい自虐的なジョークで私たちを笑わせた。
 ケンさんにもモイラにも、直接、年齢を訊いたことはないが、話の端々から、ふたりの年齢はだいたい見当がついている。ケンさんは、ちょうど私の父と同じ年齢。モイラは、私の母の年齢だ。
 父が死んでしまったいま、私の両親が揃ってウチに遊びに来ることはもはやない。が、来たとしたら、こんな感じなのかな、とケンさんたちを見ながら思った。私の父は、老いたところを私に見せるまえに死んでしまった。
 母は――どうして遊びに来ないのだろうか。
 いくら誘っても首を縦に振らないのだから、もう誘わない。そう心に決めながらも、次に電話したときには、きっとまた、「遊びに来れば?」と言ってしまうのに違いない、と思った。

 
 
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