前回、新しく引っ越した家が蟻屋敷なもので困っている、と書いた。同様のことをメールに書いて送ったところ、「蟻」を「蝶」と読み違えた友人がいた。
「蝶屋敷なんて、おシャレ〜」
と思ったそうだ。
ちっともおシャレではない我が蟻屋敷は、その後一瞬落ち着いたように見えたのだったが、今度は新たに羽蟻が加わった。
七ミリほどの赤い体に羽根がついたのが、キッチンテーブルのすぐ向こう側、裏庭に通じるガラス戸のところにうろうろしていた。そいつを最初に発見したときは、「む、ついに女王のおでましか」と思った。私は、この一カ月間キッチンに現れる大小さまざまの蟻んこをあの手この手で退治してきた。だから、怒り心頭に発した蟻たちが、ついに女王を送りこんできたのか、と少し身構えたのだった。
が、よく見ると、「女王」はあちこちにいた。ただの羽蟻だったらしい。ほっと胸をなでおろすが、ヤツらは蟻用の毒エサには見向きもしない。どうやって退治したらいいのだろうか。
それにくわえて先日は、階段の下、ちょうど私たちがいつも靴を履いたり脱いだりしているあたりに、カブトムシの幼虫の小さいのみたいなのがのたうち回っているのを発見。私は虫が大嫌いなのだが、いつもはなるべく子供のまえで騒ぎ立てないようにと努めている。好き、嫌い、あるいは、かわいい、気持ち悪いなどの虫に関する判断は、娘自身に委ねようと思っているのだ。しかし、ゴロッとしたイモムシみたいなのがうごめいているのをまえにして、昨日はさすがに「ギャー」と叫んでしまった。不覚。
というわけで、ウチは蟻屋敷改め、虫屋敷だ。次はどんな虫が入り込んでくるのだろうか(というか、みんな、どこから入ってくるのだ? 窓はみんな締め切っているのに)。うっかり虫を踏まないようにと、家のなかを歩くときには足元から目が離せない。自分の家なのに、ちっともくつろげなくて困る。
家に関する問題が続く。
土曜の夜、十時近くに洗濯を始めたところ、一階のトイレがボコッボコッと音をたて始めた。見に行ってみると、便器のなかの水に大きな泡が浮かんでは消えている。
「なんだろね?」
夫とふたり、顔を見合わせた。
「逆流してきたりしてねえー」
「ハハハー、まさか」
たいして気にもとめずに放っておいたところ、しばらくして、ぴちゃぴちゃと水の音がした。
走っていってみたら、先ほどボコボコいっていたトイレは何事もなかった。が、トイレの隣にある小さなシャワーの下の排水溝から水が湧き出ていた。それも、ただの水ではなく、バッチい水。冗談ではなく、汚水が逆流してきたらしい。
「どうしよう、溢れる!」
そのとき回していた洗濯機は二階にあって、ちょうど問題のトイレ及びシャワーの真上に位置する。汚水の逆流に関係があるのかないのかわからないが、とりあえず洗濯機を止めた。小さな噴水みたいになっていた汚水の逆流が、床まで広がるまえになんとか収まった。
「どうする?」
バッチい水が溢れそうになっているシャワーをまえにして、私たちは途方に暮れた。とりあえずその晩は様子をみることにして(朝起きたら、何事もなかったかのように勝手に問題が解決しているという奇跡が起こることを期待しつつ)、換気扇を回して寝た。
翌日、やはり汚水問題は解決していなかった。二階のトイレを使うと、問題のシャワーの排水溝から水が、わーっと出てくるのである。
下水工事屋を呼んだ。独立記念日の連休だからだれにも来てもらえないかと心配したが、年中無休の業者があった。
アレック・ボールドウィンの若いころにちょっと似ているニイちゃんが、昼前に到着。前夜の顛末を私が語るのをふんふんと聞き、家のなかのパイプのつながり具合をチェックし、家のまえを調べ、裏庭を見て、そしてひと言。
「お宅、セプティックタンクがあるの、知ってた? それがいっぱいなんだよね」
セプティックタンク――まえに何度か聞いたことがあるけど――肥溜めのことか?
「ほら、ここの丸三つ。これがタンクのフタだよ」
アレックは裏庭の芝生のなかほどに並んだ、直径七十センチほどの緑色の丸のうちのひとつに乗り、軽く飛んで見せた。彼の足元で、丸いフタのわきから水がちゃぽちゃぽと溢れ出す。げげ。汚水だ。そのフタのわきについてる白いカスみたいなのは――トイレットペーパーですかね?
「まあ、オレは裏庭に出て匂いを嗅いだ途端に、これはセプティックタンクがいっぱいだな、ってわかったけどね。この仕事を十二年もやってるとすぐにピンとくるんだよ」
そう言われてみると、そういう匂いが庭一面にたちこめている。栄養たっぷりの水がじわじわ出ていたせいだろうか、三つのフタの周りの芝生が、ほかの部分に比べるといやに青々としていて伸びかたも早い。
セプティックタンクとは、辞書で引くと「下水処理腐敗槽」とある。私はてっきり肥溜めなのだと思って、アメリカにもまだそんなものを使っている家があるのか、と勝手に解釈していたのだったが、肥溜めとはだいぶ違うものらしい。地中に埋まっている千ガロンから千五百ガロンのタンクのなかで、バクテリアを使って下水を処理するのだそうだ。公共の汚水処理場まで遠いところによくあるもので、地域の家庭が共同で使う巨大なセプティックタンクもあるとのこと。我が家の地域は、各家庭の庭にそれぞれのタンクが埋まっている。いわば、
プライベート汚水処理場
だ。現在、北米では、約二十五パーセントの人がセプティックタンクのお世話になっているとのこと。
このタンクは、定期的に掃除しなければいけないものだそうで、四人以上が住んでいる家なら三年ごとにバキュームするべし、とアレックが教えてくれた。
三年ごとに、って、ウチはまだこの家に二カ月も住んでないんだけど……。
住み始めていきなりのバキュームカー登場にはビックリしたが、この家がセプティックタンクつきの家だということを知らされていなかったのも驚きであった。この家の管理会社(大家は海外勤務のため、家の管理を委託している)と交わした賃貸契約書にはセプティックタンクに関する記載があったが、その部分にわざわざバッテンがしてあった。だから、普通に汚水処理場までつながった家だと思って、私たちはまるで注意を払っていなかった。まさか庭に肥溜め……じゃなくて汚水の入ったタンクがあってバクテリアがせっせと汚水処理しているとは夢にも思わなかったし、三つの緑の丸がタンクのフタだとも知らなかった。
「昨日だかおとといだか庭を走り回ってて、なんかあのヘンだけ濡れてるなあ、って思ってたんだよね……」
娘とよく裸足で遊んでいる夫が、顔をしかめて言った。
「うわ、あの水、踏んじゃったの?! その足のまま家のなかに入ってきちゃったのおお?!」
私が思わず叫ぶと、夫は、
「タンクのことを知らせなかったのは、賃貸契約違反だと思う!」
と怒り出した。知っている人なら、庭に三つのフタが並んでいるのを見れば一目瞭然ということらしいが、私たちのように知らない者にとっては、なんのこっちゃ、である。アメリカに住んで十三年、六軒目の家だが、まだまだ私たちの知らないことがある。
アレックが到着してから三時間ほどで、庭のタンクをバキュームする作業は終わった。
「セプティックタンク用の粉末製品があるから、それを買ってきて定期的にトイレから流すように。タンク内のバクテリアを活発にするためのものだから、忘れないようにね。それから、トイレットペーパーはなるべく薄いヤツを使うように。トイレに流せると書いてあっても、赤ちゃん用尻拭きなんかは流さないこと。生理用品も同様」
いろいろ細々と指示が出た。
肥溜めではないと知りつつも、これからはあの三つの丸いフタの上には乗らないだろうな。裸足で周りを歩くのもちょっとやめておこう。
引っ越してきてたったの二カ月で、蟻んこの襲撃を受け、セプティックタンクから汚水が溢れた。食器洗い機から水が漏れ、トイレが流れっぱなしで止まらなくなったこともあった。
次はなんだろうか。
ちょっとやそっとのことでは、もう驚かないと思う。
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