先週末、シアトルへ行った。ニュージャージーに住んでいたころの友人夫妻が夏休みを利用してシアトルに遊びに来たので、会いに行ったのだ。我が家からはクルマで北へ三時間半。
友人夫婦との約束は、土曜のディナーであった。せっかく行くのだから、翌日はゆっくりショッピングを楽しみたいなあと私は思っていたのだが、夫は、翌日の野球が気になって仕方がない。彼は、夏のあいだの毎週日曜に野球をやっているのだが、それはすごい入れ込みようで、一ゲームたりとも休みたくないというのだ。
「日帰りするってこと?」
「いや、それはちょっとむちゃだ」
野球バカの夫も、さすがに二歳児を連れて往復六時間の行程を日帰りするほど無鉄砲ではないらしい。
「ホテルに泊まって、翌朝六時に出よう」
「朝六時ぃ!?」
その日曜はダブルヘッダーの日だそうで、夫はいつにも増して燃えていた。
「普通さ、こういう状況でダブルヘッダーだったら、一ゲームめは休むもんじゃない? 小さい子供もいることだし」
「だめ。一ゲームも休みたくないのっ。朝六時、シアトル出発。決まりっ」
まったく、夫の草野球(と呼ぶと、彼はけっこうムキになって「硬球を使ってるんだぞっ」と反論する)には振り回されっぱなしだ。この五月に引っ越したときにも、なんと引越しの翌朝に野球に出かけていってしまったのだ。段ボール箱の山に妻子を置いていくなど、分別のある大人がすることとは、とても思えない。
一ゲームめはあきらめるようにと説得を試みたが、夫は頑として聞き入れない。結局、私が折れて、日曜の朝六時にシアトルを出発することに決めた。
ホテルは、友人が「部屋が広くてまあまあキレイで値段がリーズナブル」と薦めてくれたのを予約した。シアトル空港のそばのホテルで、ダウンタウンからは二十分ほど南にあり、少しでも早くポートランドに帰りたい私たちには好都合であった。
土曜の午前十時、我が家を出発した。シアトルの手前で昼食を取って、ホテルで娘に昼寝させよう、という計画である。二歳児にはまだ毎日昼寝をさせないといけないから、移動のときには計画が大変だ。
高速道路は渋滞もなく、後部座席に取り付けたチャイルドシートに座る娘も上機嫌で、私たちは順調にシアトルに向かった。
が、家を出てから一時間ほど経ったころだろうか、夫が「ガソリン入れないと」と言い出した。それで、いったん高速を下りてガソリンスタンドへ。
「セルフって書いてあるなあ……」
給油機のわきにクルマを停めながら、夫は心細そうにつぶやいた。ああ、そういえば、シアトルのあるワシントン州は、客自らが給油をしてもいい州なのだ。
アメリカでは、州ごとに給油に関しての規則が異なる。いま私たちが住んでいるオレゴン州は、セルフ給油は認められておらず、必ず店員にしてもらうことになっている。以前に住んでいたニュージャージーも同様であった。
そんなわけで、私たち夫婦はセルフ給油に慣れておらず、たまに旅行で州外に出ると、そのたびに「えーと、えーと」と給油機に書かれた説明書きを読み、長い時間をかけておっかなびっくり給油するのだ。
夫は、運転席から外に出て、給油機とにらめっこを始めた。私は、クルマが停まってぐずり出しそうな気配の娘の横に座った。
夫は、クレジットカードをなかなか受け付けない自動給油機にブツブツ悪態をつきながら、クルマにガソリンを入れ始めた。機械についたデジタルの数字が、くるくる回り出した。
ガタン、とポンプが音を立てて、給油が終わった。
夫がクルマからホースを外したそのときである。びちゃーっという音と共に、いきなり後部左の窓にガソリンがかかったのは。給油中ずっと開け放していた運転席側のドアの内部にも、ガソリンの雨。つーんと鼻をつくガソリンの匂いが、そこらじゅうに立ち込めた。
ガソリンで曇った窓ガラスの向こうに、我が夫がホースを持ってきょとーんと立ち尽くしていた。彼のジーンズにも少しガソリンがかかったらしい。幸い、もうホースからガソリンは出ていない。
娘の尻拭き用の濡れティッシュで、慌ててドアの内側を拭いた。クルマの外側は、拭くにはあまりに広範囲すぎた。
洗車場はないかと辺りを見回したがあるはずもなく、結局、窓を開け放して走り出すことにした。クルマの中は、ガソリンの匂いがぷんぷん。娘も、「ニオイー、ニオイー」とうるさい。
高速道路をぶんぶん飛ばしてシアトルに着くころにはガソリンはすっかり揮発していた。が、渋滞にでもなって、隣の車の助手席から投げタバコでもされていたら……と思うと身震いがする。旅の始まりから、とんでもないアクシデントであった。
その晩、友人たちとの食事が終わってから、ワシントン大学のキャンパスがすぐそばだったので、そのなかをみんなで散歩した。緑が多くてとても美しい大学だ。
友人夫婦の泊まっているホテルもすぐそばだというので、ついでに見せてもらった。こじんまりした新しいホテルで、シンプルかつスタイリッシュ。六階にある彼らの部屋の窓からは、マウントレーニエが見えた。シアトルのダウンタウンから少し離れているせいだろう、一泊百五十ドルという驚きの値段であった。
「いいホテルだねえ」
「いいでしょう。なによりいいのはね、静かなこと。ほーんとに静かなのよー」
友人たちと別れて、私たちのホテルへ帰った。空港近くのホテルには、いましがた見てきた友人たちのホテルのような味わいは見つけにくい。まあ、一泊のことだし、部屋は広くて清潔だし、値段もほどほどだしな、と心を落ち着けた。
昼間にチェックインしたときには人影もまばらだったが、夜になって、ロビー周辺に熱気が感じられる。若い客が多い。
娘をお風呂に入れて、翌朝の出発が早いから私たちももう寝よう、と電気を消したのが十時半。
私の上に腹ばいになった娘は、すぐに眠り始めた。が、私は寝られなかった。暗闇のなか、隣のベッドに横たわっている夫も、寝つけないらしい。いや、寝つけないらしいどころか、寝られるわけがないのだ。隣の部屋から「ブン、ブン、ブン」と、いやにビートのきいた音楽が大音量で響いてきたのだから。こういうのは、一度耳についてしまうと気になって眠れないものだ。
フロントに電話して、事情を説明した。「すぐに誰かを寄越します」という返事だったが、音楽はいつまで経っても鳴り止みやしない。電話に出たフロント係の、横着そうな声が頭によみがえった。業を煮やした私は、隣の部屋へ怒鳴り込みに行くことにした。
隣室のオートロックのドアには、外からも開けられるように棒状のロックが咬ませてあった。隙間から、音楽と人の話し声が聞こえてくる。
ドアをノックすると、手にドリンクを持った若い男が出てきた。南米系だろうか、少し浅黒い肌にパッチリした目。黄色い、フットボール選手が着るようなジャージーを着ている。ドアを開けてすぐの部屋は小さなリビングになっているのだが(全室スイート形式なのがウリのホテルチェーンなのだ)、そこには同じようにドリンクを手にした若い男の子たちが思い思いに座っているのが見えた。奥のベッドルームで音楽ががんがん鳴っている。
「もうちょっと音を小さくしてもらえませんか」
と私が言うと(怒鳴り込んでやる! という勢いはどこへやら、小心者の私は、すっぴんの顔に精一杯の笑顔を浮かべて言うにとどまった)、
「ああ、ごめんなさい、気をつけます」
彼は愛想よく言った。
言えばわかってもらえるじゃないの……ほっとして自分の部屋に帰ったが、あまりわかってもらえなかったようだ。いつまでたっても、音量はちっとも変わらなかった。やはり怒鳴らないとダメだったのか。
が、この時点では、もはや隣室の音楽は問題のひとつに過ぎなくなっていた。このホテルは一階にフロントとロビーとバーがあって、その上は吹き抜けになっており、宿泊用の部屋はぐるりとロの字に並んで上に伸びている。要するに、バーの喧騒が上にそのまま響いていく構造なのだ。私たちが泊まっていた部屋は二階で、そしてすぐ下のロビーとバーは、わさわさと若い人たちがいてパーティー状態。時おり、悲鳴のような叫び声が聞こえてくる。部屋の前の廊下をバタバタと走る音もする。
「静かなのよー」という友人の部屋を見てきたばかりだけに、なおのこと心が荒むのである。友人夫婦は、いまごろあの平和な部屋ですやすや寝ていることだろう。
「ここでは寝られない。帰ろう」
翌日のダブルヘッダーのためにどうしても寝たい、という夫が思いつめたような顔をして提案した。あくまでも自分の野球のことしか考えていない夫。
十一時半に、私たちは荷物をまとめ、眠っている娘を抱きかかえてホテルの部屋を出た。廊下にもエレベーターにも若い男女がごろごろ。エレベーターに一緒に乗り合わせたニイちゃんが、外にいる仲間に向かって大声を出したとき、思わず私は「シーッ!」と言った。子供が起きちゃうじゃないのよ、という思いっきり不快そうな顔で。ニイちゃんは、小さな声で「ゴメン」と謝った。
「うるさくて寝ていられないのでチェックアウトします」
カード式のキーを半ば叩きつけるように返して――フロントのアジア系の男は、こちらの不機嫌さに圧倒されて一言も発することができなかった――外へ出た。ロビーから出口の辺りには、やたらと露出の多い服を着た若い女の子やだぶだぶの服を着た男たちが、なにをするでもなくたむろしていた。このホテルをすすめてくれた友人が泊まったときには、こんな放課後のハイスクールまえのバス停みたいな状態ではなかったのだろう。いまは夏休み。そのせいで、若い人が多いのに違いない。
暗い高速道路を飛ばして、家に着いたのは午前二時すぎ。朝六時起きどころか、図らずも晩のうちに帰ってきてしまった。
翌朝、寝不足だ、とブツブツ言いながら出かけた夫は、「二試合とも勝った! しかも、合わせて六打数四安打、五打点」と嬉々として戻ってきた。
なんだか疲れる週末であった。
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