アメリカのおいしい生活
8月
21日月曜日

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  #80  戦わずして無罪
 
 

 それは、七月六日の朝十時過ぎに始まった。
 その週末にガレージセールをするという友人が「売りたいものあったら出してもいいよ」と声をかけてくれたので、値札用のシールを買いにいく途中だったのだ。片側二車線ずつのゆったりとしたセダーヒルズブールバードを南に向かって走っていたところ、

突然、目のまえが明るく

なった。ほんの一瞬のこと。
 しまった。
 思わず舌打ちした。スピード違反の証拠写真を撮られてしまったのだ。
 右斜め前の路肩に、歩道に乗り上げるようにして警察のバンが停まっていた。速度探知機を備えたスタンド式のカメラがすぐそばに置いてあった。
 それから一週間。警察からなにもいってこないので、「あれはもしかしたらカメラのテスト中だったのかな」と思った。が、そう思った矢先に、郵便が届いた。もちろん、スピード違反しましたね、という知らせである。
 写真は、紛れもなく私の車であった。前からと後ろからの写真。そしてそれぞれの拡大写真――前からのにはドライバー(私!)がうっすらと見え、後ろからのにはナンバープレートがばっちり写っている――も。
 三十五マイル制限のところを四十五マイルで走っていたという。罰金は、百二十五ドル。
 この手紙に対処するには三つの方法があった。ひとつは、素直に非を認めたうえで罰金のチェックを送ること。もうひとつは、無罪を訴えて裁判に持ち込むという欄に署名すること。さらにもうひとつは、手紙に記載されている時間に裁判所に出廷すること。
 裁判所に行くと、裁判官のまえで申し開きの機会が与えられ、場合によっては(というかたいていの場合)罰金が減額されるらしい。
「写真に写ってるドライバーが洋子さんだとはっきりわからないなら、『私じゃありません!』って開き直っちゃえば? そうやって罰金逃れた人の話、聞いたことあるような気がするよ」
 友人のナオミさんが言った。
「あるいは、子供が病気で救急に連れて行くところだったもので、とか言ってみる? 裁判所に子供連れて行って、思いきり泣かせてさらに同情を誘ってみたら?」
 ひとごとだと思って、いろいろと言うのである。そんなナオミさん本人は、たしか以前、警官に車を止められた際に英語がまったくわからない振りをして、チケットを切られるのを逃れるどころか、不興を買ったと聞いたことがある。
 車が夫の名前で登録してある関係で、スピード違反のお知らせの郵便は夫宛てに来ていた。木曜の午後六時などといういちばん忙しい時間に出廷を求められていたので、代わりに夫に裁判所に行くように頼んでみた。
「絶対、ダメ! 自分で行け!」
 スピード違反や赤信号無視などを繰り返している夫は、免許停止一歩手前である。これ以上、点数が減るのを恐れ、てこでも動かない。
 というわけで、自分で出廷することになった。いくらなんでも二歳半の娘を連れて法廷に入るわけにはいかないので、夫にも来てもらって娘の面倒を見てもらうことにした。
 ビーバートン市の裁判所は、映画やドラマで見る裁判所のミニチュア版という感じであった。正面真ん中の高い位置に初老の男性裁判官が座っている。向かって左側の机には、秘書らしき中年女性。後方には、真ん中の通路を挟んで長いすが片側六個ずつ縦に並んでいて、そこになんらかの交通違反をしたと思しき人々がぎっしりと詰めかけていた。
 私たち交通違反者は、受付順に呼ばれて前に出る。目の前のコンピューターの画面で「被告」がどんな違反をしたのかをチェックしながら、裁判官は
「えーと、キミはスピード違反か。それで、罪を認めますか、それとも無罪を主張しますか」
 と訊く。
 ほとんどの人は
「罪を認めます」
 と言い、
「なにか申し開きはありますか」
 と訊ねるジャッジに
「いえ、別に……。スピードリミットが四十マイルだと気がつかなかっただけです」
 とか
「ちょっと急いでいたもので」
 などと消極的に言い訳をする。
 すると裁判官は、
「この場合は二十五パーセントまで減額が可能なので……えーと、罰金は百九十五ドルになりますね。それではあちらの窓口で支払いをしてください」
 と言って、「さて、お次は……(コンピューター、カチャカチャ)」となる。機械的というか、事務的というか。
 が、ときどき、「チケットを切られたのが納得いかない!」とがんばる人もいる。
「妻が乳がんで病院に行かなければいけなくて、前の車がトロトロ走っていたからちょっとスピードを上げて追い越しただけなのです。ほら、ここに医師の証明書もあります。ほんとうに乳がんなんです」
 南米系の小柄な男性が、レターサイズの紙を広げて見せた。
「ここからではなにが書いてあるのか見えませんね」
 という裁判官に、秘書が立ち上がって診断書と思しき紙を渡し、白髪の裁判官は老眼鏡をかけてしばしそれを眺める。
「奥さんの病気はお気の毒ですが、それが交通違反を正当化する理由にはならないんです。急を要するなら救急車を呼ぶべきだし。私にできるのは、罰金を少し減ずることだけです」
 南米系の男性は、なにも言わない。結局、彼は無罪を主張して、後日、裁判をすることになった。
 裁判官のまえで、泣き出した人もいた。
 黒人の女性。三十代後半というところか。長い髪をいくつもの細い三つ編みにして、それを頭のてっぺんで束ねている。白いTシャツに、黒のパンツ。黒いサンダルを履き、黒いバッグを肩から掛けていた。
「キミは……『無謀な運転』で捕まったんだね。ええと、衝突事故を起こしたのか。どういう状況だったのか、説明してみなさい」
 裁判官の問いに答える彼女の声は、マイクを通しているというのにやたらと小さくて、ちっとも聞こえない。彼女の声がかろうじて聞こえているらしい裁判官が打つ相槌だけが、やけにクリアーに法廷じゅうに響いた。
 長い長い説明を聞いたのちに、裁判官は罰金の減額を言い渡して「はい、お次の人」となったのだが、彼女は五分後に法廷に再び戻ってきて裁判官のまえに立った。
「どうしたんだ、キミは。このほんの数分の間にまた別の交通違反をして戻ってきたのかね?」
 裁判官のジョークにも反応せず、彼女はまたしても小さい声でなにやら言い募り、そして泣き出した。
「うん、信じるよ、キミに子供がふたりいることはわかった。うん、私もキミにはホームレスにはなってもらいたくはないよ」
 ジャッジの返答から察するに、どうやら彼女は、罰金を払ったら生活できない、と言っているらしい。
「気の毒だが、キミだけを特別扱いするわけにはいかないんだ。もう罰金の減額はこれ以上できない。どうだね、分割払いというのは? 月々五十ドルずつ払うようにすることもできるのだが」
 泣いている彼女は、駄々をこねる子供のように体を左右にゆすった。
 こういう法廷の一部始終を、最初のうちは面白がって見ていた私であったが、いい加減に飽きてきた。隣に座っていた若い女性と目が合ったので、思わず「んもう、早くして欲しいよねえ」という意味を込めて目をぐるりとむいて見せたところ、フィリピン系と思しき彼女は激しく首を振って、「あらやだ、戦わなくちゃダメよ。粘るのよ、どこまでも」と言った。てっきり、泣いて裁判官を手間取らせている黒人女性にだれもが辟易しているものと思っていたが、私の隣の女性は辟易どころか応援しているふうである。
 結局、身勝手な運転で事故を起こした黒人女性は、罰金を払う代わりにコミュニティサービス(奉仕活動)を六十四時間やることで決着した。
 続いて、私の隣のフィリピン系女性が呼ばれた。席を立った彼女は、一瞬私のほうを振り返ってニヤリと笑った。「粘るわよ」という決意表明だろうか。戦うもなにも、仕事に遅れそうだったからとカープールレーン(二人以上乗っている車だけが走れるレーン)を走って捕まったという彼女には、申し開きできることなどなさそうに思えるのだが。
 それでも彼女は「無罪」を主張し、後日の裁判の日取りを決めるや、あっさりと法廷を後にした。
 さて、私の番がきた。夫の名が呼ばれ、私は立ち上がってマイクのまえに立った。
「キミは、スピード違反か。なにか言うことはあるかね?」
「えーと、車が夫の名まえで登録してある関係で、いま呼ばれたのは私の名まえではなくて夫の名まえなのですが……」
 私が言うと、ジャッジはちょっと怒ったように言った。
「本人が来なくてはダメだよ」
「あの、車を運転していたのは私なのですが……」
「いや、手紙が宛てられた人、つまりキミの夫が来なければダメだ」
「あの、夫ならすぐそこに来てます……」
 法廷の後ろの窓ガラスに、娘と夫が張り付いているのを指差すと、
「それならすぐにここに連れてきなさい」
 裁判官は厳かに言った。
 わけがわからぬままあたふたと法廷へ入った夫は、なにやら書類にサインをして、すぐに外に出てきた。
「自分が運転していたのではありません、と書かれた紙にサインさせられただけなんだよ。もう帰っていい、って」

キツネにつままれたような

顔をしている。
「へ? 罰金は払わなくていいの?」
 私も、ビックリした。
 支払い窓口の係員に詰め寄ったところ、首からIDをぶら下げた若い男性は、
「ああ、このケースは払わなくていいんです。『却下』のスタンプを押しておきますね」
 とにこやかに言った。
 不思議である。車を運転していた張本人がスピード違反を認めていて、罰金も払うつもりでその場にいるというのに、お金を受け取らないというのだから。
 どうやら、写真で捕まえたスピード違反者というのは手がかりが写真だけだから、ナンバープレートから割り出せる車の持ち主以外の人が乗っていた場合には、運転者が特定できないので無罪放免ということになるらしい。
 戦わずして無罪を勝ち取った私たちは、その晩、ちょっと気が大きくなってスシ屋に行ってしまった。罰金をセーブして食べたスシは、格別の味であった。

 
 
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