アメリカのおいしい生活
10月
3日火曜日

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  #83 ダンボを見ながら考えた
 
 

 二歳半の娘が、ここのところ「ダンボ」にご執心である。
 午後六時に猫にエサをやって、それから私が夕飯の支度をしているあいだに娘に小一時間ほどビデオを見せておくのが習慣になっているのだが、娘は五時ぐらいからそわそわし始め、さあ、そろそろ花子にエサをやりますか、と私が言うやいなや、
「だんぼみる」
 と言って、テレビのまえに座るのだ。
 これが、この一カ月くらい毎日続いている。
 同じものを何度も何度も見て飽きないのだろうか、と思う。が、娘は毎回、まるで生まれて初めて見たかのような反応を見せるのだ。
 サーカスの動物のところにコウノトリが運んできた赤ん坊たちが、落下傘のように下りていくのを見て、毎回、「これなにー?」だし、ダンボの失敗のせいでサーカスのテントが崩れてしまったときには、「ああっ、さーかすてんと、こわれちゃった!」と叫んでいるし。
 最近の3−Dふうのアニメ(「シュレック」や「ファインディング・ニモ」みたいなの)があまり好きではないので、クラシックなディズニーのビデオばかりを見せているのだ。驚きなのは、「ダンボ」も「バンビ」も、六十年以上前に作られた作品だということ。六十年前といえば、太平洋戦争中だ。そんな時代に、こんなに精巧でカラフルなアニメーションが作られていたことに驚く。
 いま見てもちっとも古さを感じずに楽しめるが、ときおり、時代を感じさせる部分もある。
 しゃっくりが止まらなくなったダンボが、うっかりアルコールの入った水を飲んでしまって酔っ払うシーン。子供用のアニメにアルコールが登場するなど、いまのアメリカではあり得ないだろう。また、葉巻を吸っているカラスも出てくるが、これもヒステリックなまでに嫌煙ムードが漂ういまとなっては、ご法度に違いない。
「ダンボ」を見ていて私がいちばん面白いと思うのは、主人公である

ダンボがしゃべらない

ことだ。母さんゾウとじゃれていて「キュー」と鳴き声を立てる場面があるが、ダンボのセリフはそれでおしまい。そういえば、母さんゾウもほとんどしゃべらない。
 一方、ダンボ親子に意地悪をするオバさんゾウたちはよくしゃべるし、ダンボと友だちになるネズミも饒舌。これらの脇を固めるキャラクターたちのセリフによって、物語が進行していくというわけだ。
 主人公にセリフをしゃべらせないというのはもったいないというか、相当勇気がいる決断だったのではないかという気がするが、しかしながら、これがある効果をもたらしている。動物特有の、「物言えぬ哀しさ」がじんわりと伝わってくるのだ。「母さんゾウと離れ離れにされてしまって悲しい」とか「道化役に仕立てられ、笑いものにされて悔しい」などとダンボが気持ちを語ってしまうよりは――それも、作り物みたいな幼稚な声で言うよりは――なにも言わず、というか言えずに目から大粒の涙をぽとり、ぽとりと落とすほうが、見るものの胸にぐっと迫ってくる。
 登場人物にしゃべらせないといえば、チャーリー・ブラウンの通っている学校の先生もそうだったな、と思い出した。「プワプワプワ、プワー」と気の抜けた音を発するだけの先生との会話の内容は、「はい、先生。僕は宿題をやってきませんでした」とかいうような生徒の受け答えからのみ知らされるのであった。
 出ずっぱりのダンボと違って、登場する場面はとても少ないチャーリー・ブラウンの先生ではあったが、「プワー、プワー」と出てくるたびに、「いったい全体、何者だ?」と気になったし、どういう効果を狙っているのだろう、と製作者の意図を――学校の先生(大人)の言っていることというのは子供の耳にはあんなふうに聞こえているのだということを表したいのかな、とか――あれこれ推察してみたりもしたものだ。
 そんなことを考えているうちに、アメリカのテレビコメディーに、セリフはきっちりあるけれどいつも目から上しか登場しないキャラクターがいたのを思い出した。
 これは、「ホーム・インプルーブメント」というコメディーのなかの、主人公一家の隣の家に住んでいるおじさんだ。主人公のティムやその妻、子供たちが窮地に陥ったときなどに、気の利いたアドバイスをしてやるという役どころなのだが、登場する場面がいつも主人公宅の裏庭の塀越しなので、目から上しか見えない。たまに、裏庭ではないところに出てきたりもするのだが、こういうときにも必ずなにかがちょうど顔の下半分のあたりにあって(具体的には忘れたが、たとえば読みかけの本を顔の前に開いていたり、椅子の背があったり)、目から上しか見せないようになっていた。この、意固地なまでに目から下を見せない工夫が、製作者のユーモアのセンスを物語っていた。
 そういえば、

まったく姿を見せない

登場人物がいる番組もあった。シアトルが舞台の「フレイジャー」というコメディー。精神科医でラジオパーソナリティーのフレイジャーが主人公で、登場しない登場人物というのは、フレイジャーの弟の妻、マリス。
 このマリスという人物は、フレイジャーたちの会話にはよく登場するのだが、実際に姿を見せたことは一度もない。会話の内容から察すると、彼女はものすごく小さくてものすごく痩せていて、とても神経質で、そしてとんでもない恐妻。
 今回こそはマリスが登場するかしら、どんな人が演じるのかしら、と、楽しみにしつつ、フレイジャーたちの会話のなかでやや大げさに語られるマリスの奇妙さから、ちょっとこの世のものとは思えないような、化け物っぽいキャラクターのイメージが頭のなかに膨らんでいくのだった。フレイジャーたちの描写に合った俳優がどんなに忠実に演じたとしても、「え? マリスってこの程度?」と物足りなく感じたに違いない。視聴者の想像力に訴えかけて、生身の人間では演じることができないような登場人物を作り出すという、なかなか面白い手法であった。
 日本のテレビや映画で、ダンボのようにしゃべらない主役や、あるいは「フレイジャー」のマリスのように姿を見せない登場人物が、ある効果をもたらしていた例はあっただろうか。しばし考えてみたが、思い当たらなかった。ちょっと考えただけでこういう例がつるつるっと出てくるアメリカに比べると、日本では「セリフをしゃべらせない」「見せない」というような手法があまり使われないということだろうか。
 華美とか饒舌が好まれる文化のアメリカでこういう手法が多用され、「わび、さび」の日本であまり使われないというのは、なかなか面白い発見だ。
 娘につきあって三十何回目かぐらいの「ダンボ」を見つつ(ほんとに飽きた!)、こんなことを考えてみている。

 
 
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