アメリカのおいしい生活
11月
6日月曜日

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  #85 プール通い
 
 

 ふと思い立って、泳ぎを習うことにした。
 ……なんていうとカッコいいけれど、実は何年かぶりに測ったウエストが記憶のなかのそれよりも

六センチも増えていた

ので焦っているのだ。
 目標は、たっぷん、たっぷんとクロールで延々泳げるようになること。よくプールで見かける、ゆったりしたペースを保って黙々と泳いでいる人になりたいのである。
 水泳が得意な友人に、「ずーっと泳いでいて疲れないの?」と尋ねたら、
「歩くのと同じ。だから疲れないのよ」
 という答えが返ってきた。もう十年以上もまえのやり取りだ。
 以来、「歩くみたいに泳ぐ」というのはいつも私の頭の隅っこにあって、いつかはできるようになりたい、と思うようになった。
 私は、きちんと泳ぎを習ったことがない。小学生のころ、夏休みに市民プールで父から教わっただけだ。いちおう二十五メートルくらいは泳げるようになったけれど、プールの向こう岸に到着すると、別に全速力で泳いだわけでもないのに、「ぜえぜえ、はあはあ」と肩で息をしている。きっと、ひどく効率の悪い泳ぎ方をしているのだろう。
 娘を通わせている学校から十五分ほどのところにあるレクリエーションセンターで、スイミングのプライベートレッスンをやっていると知り、申し込むことにした。一回三十分、全五回で百十五ドル。高いかなあ――いや、これでたっぷん、たっぷんと泳げるようになるなら安いものだ、と自分に言い聞かせる。
 
 泳ぎを習うにあたり、ひとつ問題があった。水着である。
 ここ十五年ほど愛用していた水着は、さすがに生地が薄くなっている。それに、一度うっかり乾燥機に入れたせいで、胸のカップが変形してしまった。
 新しいのを買おうと思い、いさんでスポーツ用品店に出かけていったのだが、季節外れのせいか品ぞろえがひどく悪い。
 それならネットで買おう、とあれこれリサーチしてみたところ、私に合うような水着――シンプルなスポーツタイプの水着――がどうしても見つからないのである。
 大人用は、サイズ四からしかない。それならティーンズ用を、と取り寄せてみれば、いちおうサイズは合うものの、胸にカップがついていない。着てみると、伸縮素材にぎゅううっと押されて、もともとない胸がさらにぺったーんとなり、カップがないせいで、左右にぽちーん、ぽちん。
 仕方がないのでスポーツタイプの水着にこだわらずにファッション水着を検索していくと、サイズの小さいものはあっても、ビキニだったり、胸が大きく開いていたり。やたらとセクシーすぎてレクリエーションセンターのプールにはとてもふさわしくない。
 結局、日本の水着サイトで見つけたものを友人に頼んで送ってもらった。サイズM――試着もせずに買ったのに、あつらえたようにぴったりだ。なんでこんなに簡単なことがアメリカではできないのだろうかと不思議でならない。そのくせ、アメリカのプールには相撲取りみたいな体格の人たちがごろごろいて、それぞれに凝ったデザインの水着を着ているから腹が立つのだ。
 
 さて、どうにかこうにか水着も入手。スイムキャップとゴーグルも買って、プライベートレッスンに向けて準備万端。
 金曜の午前十一時十五分に、プールわきのジャグジーのところでインストラクターと落ち合うことになった。
 レッスンの手配はすべて受付係との電話で行ったので、インストラクターがどんな人なのかわからない。Speedoの競泳用ビキニ着用の、筋肉ムキムキ、白い歯きらりーんな若い男性だったらどうしよう……などと心配(と期待)をしていたのだったが、約束の時間に現れたのは、私よりも年上の、ジェンというオバさんインストラクターであった。ああ、気が散らずにレッスンに集中できるわ、と安堵する一方、ちょっとガッカリ。
「少しは泳げるんですが、もっときちんと、そしてもっと長いこと泳げるようになりたくて」
 と私が言うと、ジェンは、
「じゃあちょっと泳いでみて」
 私がクロールをやって見せたところ、彼女は、
「あらやだ。アナタ、泳げるじゃないの。何回のレッスンに申し込んだの? 五回? お金の無駄よ」
 と言う。
「手直しするポイントをちょこちょこっと教えてあげるくらいでよさそうね」
 えー、そうなの、私って泳げてたの……と気をよくしながらレッスンはスタートしたのだったが、しかしながら、いざやってみれば、手直しのポイントはちょこちょこどころではないのであった。アメリカ人はつくづく、ひとを褒めるのが上手である。
 足のバタバタはともかく、手の動きがまるで違うのだ。いままで私は、両手でからだのわきに円を描くようにして泳いでいたが、ジェンは、
「まっすぐ前に伸ばした手を自分の胸に引き寄せてひじを上げ、そして手を水面に滑らせるように前に伸ばす」
 と言うのである。要するに、手は自分の前と胸との一直線上を行ったりきたりするだけ。これまで、まるで飛び魚のように水面上の空間に弧を描いていた私の両手とはまったく違う動きだ。
「手を引き寄せて、ひじを上げ、そして手を滑らせるように……」
 などと頭で考えながら泳ごうとすると、三掻きめくらいでぶくぶくぶく……と沈んでしまう。ひじのあたりがギクシャクして、ロボットになったみたいだ。
 しかし、がんばって練習していくうちに体が新しい動きを覚える。そして、「あ、いまの動きがそれ? この感じでいいわけ?」という瞬間がだんだん増えてくる。
 四十を過ぎて、なにかを習うという機会がほとんどないいま、自分のからだが新しい動きを覚えていく感覚というのが新鮮だ。図々しいことに、最近あちこちに衰えを感じつつあるからだが、水のなかで新しくなっているような錯覚に陥ったりもする。
 いまのところはレッスンを二回終えただけだ。頭で考えなくても体が動くという段階にはまだ至っていない。が、それでも水の中を進む感じがいままでとは違って、ずいぶんとラクになったような気がする。
 
 大人になってから水泳を習ってみると、こういうものは頭もからだも柔軟な子供のころに習っておくべきものだなあ、とつくづく感じる。
 小学校のころに水泳の授業はあったけれど、あれで本当に泳げるようになった人がどのくらいいるだろうか、と思う。やはりスイミングを習っていた子たちの颯爽とした泳ぎには比べるべくもなかった。
 いまやスイミングは人気の習い事のひとつだそうだが、私が子供のころにはスイミングを習っている子はまだあまり多くなかった。クラスでせいぜい三、四人だったと思う。ぼてっとした紺色のスクール水着を着てばちゃばちゃ泳ぐ(というかもがく)私たちの横を、青と赤のスキッとした水着に身を包んだ彼女らがさっ、さっと泳いでいくのが恨めしかったものだ。
 アメリカの学校には

スイミングの授業というのがない

から、子供に水泳を学ばせるのは親の仕事だ、という話を聞いた。「親の義務」と言う人もいるらしい。
 特に女の子は、生理が始まってしまうとレッスンにも行きにくくなるから、早めに習わせないといけないのだそうだ。
 そういう話を耳にすると、強迫観念めいたものが自分のなかに芽生えてくる。ウチの娘も小学校低学年くらいになったら、スイミングスクールに通わせなくては。
 きっと最初は嫌がるだろうが、そのうちすぐに慣れて、すいすい泳ぐようになるに違いない。自分の娘のことだから喜ばしいことだと思いつつ、一方では軽い羨望も覚える。
 ずっと先のことを想像して自分の子供に妬ましさを感じるのも妙なことだ――そんなことを思いながら私はプールに通い、ぎっくりしゃっくり泳ぎを練習している。

 
 
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