すこしまえ、オレゴン南部の山中で、ある家族が遭難した。韓国系アメリカ人の父親、白人の母親、それに四歳と生後七カ月の娘がふたり。
サンフランシスコに住む彼らは、サンクスギビングにシアトルを車で訪れ、それから友人に会うためにポートランドに寄ったのちに消息を絶った。そのあとは、オレゴン南部の海岸沿いにあるロッジに宿泊してからサンフランシスコに戻ることになっていたそうだ。
母親とふたりの娘は、行方不明になってから九日目に救助された。彼らの居場所は、最後に食事をしたレストランでの目撃者の証言と、山中に迷い込んだ彼らの携帯電話にかけられた電話の記録によって特定されたそうだ。電話は、受信しにくい山中のことだから通話はできなかったようだが、近くの受信タワーが彼ら宛ての電話をキャッチしていたのだそうだ。
この一家に起こったのは、こういうことだった。
その晩彼らは、ワシントン州からオレゴン州、カリフォルニア州を南北に貫く五号線という高速道路を南下していた。オレゴン南部の海岸沿いにあるロッジに行くためには四十二号線という高速道路に乗り継いで西に向かわなければいけなかったのだが、うっかり出口を逃して、五号線を下りそこなってしまった。
地図を見てみたところ、五十マイルほど先に西に向かう別の道があるのを見つけたので、彼らはそれを使うことにした。
ベアーキャンプロードというその道は、実は地元の人でも冬のあいだは使わない道であった。運転していくうちに標高が上がり、そして激しい雪が降り出した。彼らは引き返すことにしたが、
Uターンもバックもできない
ほどの雪だった。ガソリンが少ないことに気づき、とにかく標高の低いところに行こうとして、わき道に入っていった。
二十マイルほど走って下っていくと雪は雨に変わった。それで、彼らはひとまず車を停めて眠ることにした。
翌朝、目を覚ましてみると、夜のうちに降った雪に囲まれて車はすっかり動くことができなくなっていた。そしてそれから数日間、さらに激しい雪が降り続いた。どうすることもできずに、一家は持っていた少ないベビーフードとジャムと雪を解かした水とでしのいだ。時折、車のエンジンをつけては暖を取った。
そのうちにガソリンが切れ、バッテリーも上がった。彼らはまず持っていた雑誌を燃やし、スペアタイヤを燃やし、そしてタイヤをすべて燃やした。母親は、七カ月の娘だけでなく、四歳の子にもおっぱいをやった。
母子三人が救出されたとき、父親は彼らと一緒ではなかった。二日前に、「助けを呼びに行く」と言って出かけて行ったのだそうだ。地図によれば四マイルほど行ったところに町があるはずだから、と。
無理だと判断したらその日の午後一時には戻るから、と言い置いて朝早く出て行った若い父親は、約束の時間になっても戻らなかった。
彼は、妻と子供たちが発見されてから二日後に、山中の小川で遺体で発見された。四マイルほど先と思っていた町は、実際には十五マイル離れており、そして彼は家族のもとを離れてからうねうねと曲がりくねったルートを十マイル以上も歩いたのだったが、彼が倒れていたところは、出発した地点から――家族がいる車から――直線にするとほんの一・五マイルほどしか離れていなかったそうだ。さらに皮肉なのは、彼らの車から別の方角に一・五マイル行けばロッジが一軒あり、冬期は休業中ながらも、食料や寝る場所などがあったという事実。
この家族の悲劇は、地元オレゴンではもちろんのこと、全米規模の大きなニュースになった。私も、毎日ハラハラしながら新聞を読んだ。
遭難のニュースというのはいつも胸に迫るが、今回の彼らのこの件に関しては、普通の人が日常生活の延長線上で、ちょっとした不運の積み重ねによりどんどん抜き差しならない状況に追い込まれていった、という点に恐ろしさを感じた。自分たちにも充分に起こりうることだという気がしたのだ。
「高速の出口で下りそこねて、地図で見たら別の道があったからそっちの道を行くことにしてみた」などというのは、我が家では日常茶飯事である。
また、「地図によれば町まで歩けそうだから、ちょっと助けを呼びに行ってくる」というのも、同じ状況に置かれていたら、夫が言い出しかねないことだ。その場で私たち夫婦が交わしうる会話が、すぐに頭に浮かんでくる。おまけに、町までの距離の見積もりが間違っているというのも、私たちなら充分にあり得る。
携帯電話やメールでどこでもだれとでもコミュニケーションが取れる今の世の中で、こんなにも簡単に人が遭難してしまうことに戦慄するのだ。どんなにテクノロジーが発達したところで、やはり自然というものはときに人智をしのぐ恐ろしさでもって、人間を飲み込んでしまうのである。
私たちの身にもいつなんどきなにが起こるかわからないから備えておこう、などと思いつつもなにも行動を起こさずにぼんやりしていたら(だいたいなにが起こるか想定もしていないのだから、なにを備えていいものやらという感じである)、突然、嵐がやってきた。いきなりの、激しい風と雨である。
その晩、ダウンタウンで会食をした夫は、いつもなら二十分ほどで帰る道を一時間近くかけて帰ってきた。あちこちの道路に木がばっさばっさと倒れていたそうだ。家の近くまで来ているといのに、ごろりと道に横たわる木に行く手を阻まれUターンする、というのを何度か繰り返し、残りひとつのルートが使えなかったら今夜はもう家に帰りつけない――そんな状況だったという。帰り道はまるで障害物競走か、テレビゲームみたいだった、と夫は興奮気味に言っていた。
我が家の地域が停電したのは、娘とふたり夕飯を終え、夫の帰りを待っていたときだった。
風が強く吹き出した夕方ごろから、もしかしたら電気が止まるかもしれないと思って、いちおうロウソクとチャッカマンだけは探し出しておいたから、慌てずに済んだ。ちなみにこのチャッカマンは、私たちが引っ越してきたときにキッチンカウンターの上に置かれていたものだ。まえにこの家に住んでいた大家一家の持ち物だったのだろう。これがなかったら、マッチ、マッチと右往左往したに違いない(だいたい、夫も私もタバコを吸わなくなったいまの我が家に、マッチなどあるのだろうか)。
いくつかあったはずの懐中電灯は、度重なる引越しでどこに入れたのかわからなくなった。ひとつだけ棚の中に発見したが、電池を入れっぱなしにして何年も放置してあったので、電池から染み出たと思われる水色の液体がスイッチのところで固まっていて使い物にならなかった。
停電で異様にエキサイトする娘をなんとか寝かしつけて家のなかを見回してみると、
電気がなければなにもできない
ということに今さらながら気づくのである。
何時だろう、とつい何度も見てしまうのは電子レンジについているデジタル時計。いつもは明るい緑色で時間を表示しているが、電気が切れているときにはのっぺらぼうだ。電話はどうか、とレシーバーを手にしてみれば、うんともすんとも言わない。その昔の電話は停電のときにも使えたが、最近のあれこれと機能がついた電話は、いざというときには役立たずである。
ガスレンジは点火ができないがガスは出るので、チャッカマンで点火してミルクパンで湯をわかし、お茶をいれた。外では雨風が猛り狂い、窓を震わせた。庭に置いていたプラスチックの椅子が、風に吹かれてごろごろと転げまわっている。いつもはセントラルヒーティングで暖かい家のなかが、だんだんと冷えてきた。
なにもすることがない。
ゆらゆらとゆらめくロウソクの火のもと、夫と私は時間をもてあましながらお茶を飲んだ。
窓を叩きつける雨風のあまりの激しさに、時おり、目を見合わせる。嵐は一晩で去っていくだろうし、電気もきっと朝には戻るだろう。仮に数日間、停電が続いたとしても、パントリーのなかに食料はたくさんあって煮炊きもできるし、それに車が使えるのだからレストランに行くことだってできる。
それでも、電気が切れたというだけで――それも、たったの一晩――不安な気持ちになる。家のなかにいてさえ、この不安さである。雪に閉ざされて身動きがとれなくなったあの家族は、空気が凍てつく暗闇のもと、動かなくなった車の中で身を寄せ合って何を思ったであろうか。
私たちが自分たちの手で築きあげている思っている日常など、自然の猛威の手でひとひねりである。電気が使えなくなっただけで、私などはすぐにおろおろしてしまうのだ。そして、その電気の復旧もまた、電気会社の作業を待つしかない。生活の基盤をいかに他人に頼っているかということに、いまさらながら驚くのだ。
この嵐のせいで、ポートランド近辺では三十万世帯以上が電気なしの夜を過ごしたとのことだった。我が家から一時間とすこし西に行った海沿いでは、時速九十マイルというハリケーン級の風が吹き荒れていたそうである。
我が家の停電は、翌日の正午まえに終わった。
私は、ゆめゆめ自然災害を侮るなかれと自分に言い聞かせ、まずは懐中電灯を買いに走った。
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