エルヴィス・プレスリーが、私のなかでちょっと流行っている。
きっかけは、Finding Gracelandという映画。
捨てようとしていた古い雑誌をぱらぱらとめくっていたら、たまたまこの映画の評が目に留まった。「ああ、そういえばこの映画、見たいと思っていたんだったなあ」と思い出して借りてみたのだが、これが
なかなかの掘り出し物
であった。
妻を交通事故で亡くした悲しみから立ち直れずにいる若い男バイロンが、メンフィスに向かう途中で、自らをエルヴィス・プレスリーだと名乗る中年男に出会う。エルヴィスは没後二十年が経つのだし、だいたいその男はエルヴィスとは似ても似つかない――関わりあうとろくなことにならない頭のおかしな男だと思いつつも、一緒に旅をするうちに、バイロンは次第に「エルヴィス」と心を通わせ、「もしかしたら彼はあのエルヴィスなのでは」と思い始める。それと同時に、妻が死んだのは自分のせいだと思い込んで自身を責めていた彼は、再び前を向いて生きはじめる、というのがストーリー。
なんだかワケのわからないヤツと次第に心を通わせ合う、とか、それによって頑なだった主人公の心が徐々に癒される、などという筋立ては、いかにもありがちである。おまけに、ところどころに「?」という部分があるのにそれについての説明が不足しているので、ストーリーを追いながら頭のなかでつじつまを合わせようとがんばっていると、フラストレーションのたまる映画ではある。
普通なら、「なにこれ」と憤慨しても不思議ではないのだが、憤慨どころか、「案外よかった」と思わせたのは、ひとえに主演のハーヴェイ・カイテルの魅力ゆえだ。つかみどころのない浮世離れした男のようでいて、不意にぐいっとひとの懐に入り込んで心を鷲づかみにする「エルヴィス」ぶりに、多少のストーリーの雑さはどうでもよくなってくる。
圧巻は、安っぽいホテルのそっくりさんショーで、彼がSuspicious Mindを熱唱する場面だ。折り紙みたいなべたっとした青色の派手な衣装に身を包み、寸胴で短足な「エルヴィス」が朗々と歌いあげたかと思うと、曲の終盤、テンポが速まってきたところでプレスリー独特の大仰な振り付けを、短い手足でキメる。
見た目も声も、プレスリーにはちっとも似ていない。が、堂に入っていて、それでいて、物真似をやる人によくある、手馴れたような、流しているような感じはない。エルヴィス本人とはとても思えないけれど、もしかしたら一瞬エルヴィスが降霊したのかも、と思わせるような、「気」の入ったパフォーマンスなのであった。
ふらふらと旅を続けながら、出会った人々の心を癒す「エルヴィス」自身もまた、深く傷ついた過去を持っている。自分をエルヴィス・プレスリーだと思い込んでなりきっているうちに、彼は辛い体験を乗り越えてしまった。ただの頭のおかしな男だといってしまえばそれまでなのだが、彼を見ていると、「信じたいと思うことを信じれば、それが真実になる」という気がしてくる。もちろん、そんなことは現実逃避だし、世の中すべての人がそれをやったら大変なことになる。が、たまにはそんな「自分だけの真実」があってもいいのか、と思わせられる、不思議な映画であった。
この映画を見たあと、実は私はエルヴィス・プレスリーという人をほとんど知らない、ということに気がついた。知っているのは、The King of Rock' n' Rollと呼ばれているということ。ドーナツの食べすぎで死んだらしいということ。冗談としか思えないど派手な衣装にとてつもない大きさのもみ上げ。そしていくつかのヒット曲。それだけだ。
歌を歌っているエルヴィスをきちんと見たことがなかったので、Elvis: That's the Way It IsというDVDを借りた。一九七〇年の「ロッキュメンタリー(ロック+ドキュメンタリー――DVDについていた説明書きに書いてあった造語だがちょっと笑えた)」。五十年代には一世を風靡したものの、六十年代になってビートルズやローリングストーンズに取って代わられ、過去の人になりつつあったエルヴィスが起死回生のカムバックを果たしたころのコンサート風景を撮ったもので、日本では「エルヴィス・オン・ステージ」というタイトルがつけられている。
見始めてまず驚いたのは――エルヴィスについてではないのだが――
太った人が見当たらない
ことだ。エルヴィスのバンドやスタッフ、それにコンサート会場に詰めかけた観衆など、それはそれはたくさんの人が画面に映るのだが、ひとりとして太った人がいない。いまのアメリカだったら、コンサート会場など、大勢の人が集まるところを映せば、画面の中にひとりやふたりは必ずかなりの幅を取っている人がいるというのに。七〇年は、そんなに昔のことではない。アメリカ人は、この三十年と少しの間に、急速に肥えたのである。
もうひとつの驚きは、タバコを当たり前のように吸っている光景だ。コンサートの打ち合わせをする席で、スタッフがタバコを吸っている。ちょっとまえに別の映画(八十年代製)を見たときにも、「あっ、ロスアンジェルスの空港でタバコ吸ってるよ!」と驚いたことがあったが、アメリカのヒステリックともいえる嫌煙ムードが始まったのも、そんなに遠い昔のことではない。
タバコを止めると太る、というが、アメリカ人は禁煙して肥えてしまったのだろうか。もちろん、そんなに単純な構造ではないはずだが、それにしても、タバコを社会から追い払って健康志向まっしぐらかと思いきや、肥えて不健康になっている、というのはなんとも皮肉である。
さて、肝心のエルヴィスについてだが、てっきり、決められたように踊って歌うだけの「アイドル」なのだと思っていたら、思いのほか「アーチスト」だったので、やや意表を突かれた。光沢のある、化学繊維っぽいてろてろのシャツを着たエルヴィスが、リハーサルで、バンドやコーラスに「ここはこういうメロディーでいこう」などと、ギターを抱えつつ指示を飛ばしている。どういう音楽をやりたいのかというイメージが彼のなかにあって、それに向かって突き進んでいる「アーチスト」のように見えたのでちょっと驚いた。エルヴィスがいつもそうであったのか、それともカメラが回っているからそう振舞っていただけなのかは定かでないが。
エルヴィスの意外にアーティスティックな一面に驚いたものの、その後、延々と続くリハーサル風景には少々飽きた。普段着のエルヴィスとバンドのメンバーたちとのカジュアルなセッションは興味深いといえば興味深いが、正直なところ、退屈した。
やはりエルヴィスは、ステージに立ってこそ、エルヴィスだ。入念なリハーサルを経てラスベガスのホテルで行われたコンサートで、エルヴィスは完璧なエンターテイナーぶりを披露したのだ。
私がいちばん感心したのは、エルヴィスのショーマンシップというか、サービス精神である。彼は、ひとを喜ばせたくて仕方がないのだ。歌って踊るのはもちろんのこと、最前列の女性たちにキスをし、それでも飽き足らずに会場の奥まで行ってキスして回るし、歌の合間のトークでは、ジョークを言って客を笑わせようとする。汗を拭いて、と客席からタオルが飛んでくれば、額や首の汗だけでなく脇まで拭こうとしていちいち笑いを取るし、コンサートが終わって幕が下りてきたときには、すっかり下りた幕を持ち上げてひょっこり顔を出すお茶目ぶりだ。
キングなんだからどっしり構えていればいいのに、と私は思ったのだが、エルヴィスはまるでおサルのように始終ちゃかちゃかと動き回っていた。ひとを楽しませるのが楽しくて仕方がない、という表情であった。きっと普段も、言わなくてもいいようなジョークを連発するお調子者だったのだろうし(そういえば、リハーサル風景でもバンドメンバーやスタッフたちになにやらジョークを飛ばしていた)、仮に歌手にならずに会社勤めをしていたとしても、会議の沈黙を埋めるべく、ついダジャレを連発するオジさんになっていたのではないかと思わせるほどだ。
自分の好きなことを思い切りやって楽しそうに見えるエルヴィスだったが、一方では、そんなに張り切らなくてもいいのに、という危うい感じもした。これはもちろん、後に彼が急逝すると知っているがゆえに感じる危うさではあるのだが、それにしても、ステージを駆け巡り、ヒット曲を次々に熱唱し、ファンにサービスし尽くすエルヴィスは、闇雲に全速力で突っ走っているみたいに見えて、痛々しかった。
エルヴィスは、六九年から七七年までの八年間に、千百四十五回のコンサートをこなしたのだそうだ。三日に一度強のペースで、歌い、踊り、観客を喜ばせようと汗みずくになっていたのである。いかに本人が好きなことをやっているとはいえ、このスケジュールはほとんど自殺行為であろう。
エルヴィスが突然死んだのは、このフィルムを撮ってから七年後の四十二歳のとき。いまの私と同じ年だ。すっかりおっちゃんになって死んだのだとばかり思い込んでいたので、意外であった――というのは図々しいか。おっちゃんになって死んだエルヴィスと同じ年齢になっている自分にビックリしたというべきかもしれない。
今年はちょうど没後三十年。命日の八月十六日には、メンフィスで追悼の催しが大々的に行われるのだろう。遅蒔きながらのにわかファンだが、ちょっと行ってみたくなった。
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