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scene1:
電話ボックス
表参道を歩いていて、電話ボックスの女性に、ふと目が止まった。
小雨降る、金曜日の夕方だった。神宮前の交差点に下りていく色とりどりの傘や、細い雨を照らし出す車のヘッドライトの中、ぼくは足を止めた。
ベージュの薄手のコートにセミロングのヘアスタイルは、落ち着いた雰囲気のOLといった感じだ。20代後半だろうか。
受話器を握りしめ、彼女は泣いていた。
表情を隠さない程度に電話ボックスを濡らす晩秋の雨模様が、テレビドラマのワンシーンみたいだった。
もちろん、声はまったく聞こえてこない。
携帯電話が世の中に氾濫するようになってから、街の公衆電話ボックスは「空」の状態が多くなった。ボックスの中での、ごく普通の人たちの笑ったり怒ったりといった“素の表情”を見かけなくなった気がする。
近所の図書館や駅に向かう途中、あるいはクルマで信号待ちしているときに、「箱の中の人たち」とすれ違うことが少なくなった。そういえば、ぼく自身、しばらく電話ボックスを利用していないことに気づく。ゆっくりと閉まるドアの具合や受話器の重さ、ボックスの内側から見る、外を行き交う人々の様子などにすっかりご無沙汰している。
ガラス一枚で、外界と閉ざされる空間。
喧噪とした街中で、ポツリと誰かを待つ電話ボックスが、ぼくは好きだ。
電話線で遠くの誰かとつながる場所というよりも、都会のシェルターみたいな役割。そこでは、泣いても笑っても叫んでみても、誰も気にとめない。テレホンカードのデジタル数字と順番待ちの人を気にすればいいだけだ。
そう、かなり前に、大型トラックがひた走る国道沿いの電話ボックスから、恋人に電話する男をショート・ストーリーに書いたことがある。まだ、携帯電話がこの世に誕生していない頃。男は明日からの地方転勤が決まっていて、レンタルビデオを返しにいったついでに、電話ボックスから彼女の声を引きだそうとする。
真夜中、東京最後の夜。
「元気? まだ起きてた?」
「明日から遠距離電話になっちゃうね」
「ぜーんぶ、会社に請求してやるよ」
「いまどこ? クルマの音で声が聞きづらいけど」
「国道のクソ寒い公衆電話だよぉ」
なんて、たわいのない会話が続いていく。そして受話器を置き、ボックスの扉を押したとき、思いがけず男は胸をつまらせる。
表参道の女性はなぜ泣いていたのだろう。
アフター5にはまだ少し早い時間だった。とはいえ、仕事の途中や休日でもなさそうだ(あくまでも憶測だが)。オフィスから早退して、どこかに向かう途中……あふれる思いに胸をつまらせ、震える肩を抑えながら涙をこらえている感じだった。恋人との別れ話が原因というよりも、何かの大切な試験にでも落ちたときのような、哀しさよりも悔しさからくる涙のようだった。受話器の向こうでは、誰がどんな言葉を彼女に投げかけていたのだろう。
公衆電話だから、彼女の方から電話をかけたことは間違いない。そして、表参道のその電話ボックスを選んだのもまた彼女自身なのだ。受話器は使用者の声を記憶も記録もしないけれど、携帯電話にはあり得ない「切り取られた情景」がそこには存在する。きっといつか彼女は、その電話ボックスに再会し、昔の涙を思い出したり、カラッと忘れて、受話器を握りながら笑ったりもするのだろう。
週末の金曜日。乗客の往来でごった返す原宿駅からJRで次の街に着いた頃には雨も止み、もう日は暮れていた。透明のビニール傘をたたむと、ポケットの携帯電話が忙しく鳴り始める。ぼくはいつものようにそれを耳にあてた。
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