新刊試し読み 石岡琉衣『白馬に乗られた王子様』

産業編集センター/2011年7月刊/定価・本体1200円+税

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石岡琉衣『白馬に乗られた王子様』第1章


       ♀ 白馬に乗った王子様

『だって、白馬に乗った王子様に出会っちゃったんですものぉ』
 その言葉に美月は髪をまとめる手を止めた。世の中が地デジに移行した後もチューナーをつけてしぶとく使い続けている中古のブラウン管テレビには、美月より三つ下、十八歳の若手女優の笑顔が映っている。
「なにが白馬の王子様よ」
 思わず独りごちてリモコンを手に取り、電源ボタンを押した。
 が、消えない。電池が切れかけていたのを思い出しリモコンの裏のカバーを開け、電池を指でくるくると回す。その間もテレビからは女優が幸せいっぱいの笑顔をふりまいてくる。
『女優を引退するなんて、もったいないと思いませんか?』
『急ぎすぎてるとは思いませんか?』
 矢継ぎ早に報道陣が質問を投げかける。女優は、それが演技ならばアカデミー賞クラスの賞をもらえるであろう最高の笑顔で答える。
『だって、ホントに白馬に乗った王子様に出会っちゃったんですものぉ』
 パシャパシャパシャ、その愛くるしい表情にカメラマンがいっせいにフラッシュをたく。
「何度同じこと言ってるのよ」
 ブツン、と音がして今度こそ画面が消えた。リモコンを置いて時計を見ると、すでにアパートを出る時間は過ぎている。美月は急いでセミロングの黒髪を後ろでまとめ、カバンを肩にかけ外に出た。
 
「ねぇねぇ、今朝のアレ見た?」
「だって、白馬に乗った王子様に出会っちゃったんですものぉ、でしょ?」
 満員の電車内で隣に並んでいる女子高生たちがキャッキャ言いながら盛り上がっている。
「そうそう、うっらっやっまっしぃわぁ。やっぱりいるところにはいるのねぇ」
「私んとこにはいつ来るのかなぁ」
「まず私が先でしょ、論理的かつ常識的に考えて」
「何でよ!」
 今日はこれから何度この話題を耳にするのだろう。会社の昼休みもこのネタに終始するに違いない。少しうんざりした気持ちになった。
「おはようございます」
「おう、高瀬君。見たか今朝の。『だって、白馬に乗った王子様に出会っちゃったんですものぉ』ってやつ」
 まさか中年の長谷部課長の開口一番もそのセリフになるとは思わなかった。美月は、「はぁ、一応」と答え、温度にうるさい課長好みの適度に冷ました緑茶を机に置いた。
「いるところにはいるもんだねぇ」
 女子高生と同じことを言っている。さすがに、私のところにはいつ来るのかなぁ、とは続かないだろうが。
「だって、白馬に乗った王子様に出会っちゃったんですものぉ」
 昼休みに給湯室で弁当箱をすすいでいると、先輩の佐々木姫乃が胸に手をあて、うっとりとした表情で入ってきた。同僚の青田里佳子と赤西静香も後に続く。
「やっぱりいるんですね、白馬の王子様って」
「私のところにはいつ来るのかなぁ」
 予想どおりの会話だ。予想通り過ぎて苦笑いがもれた。この日、日本の独身女性の何割が同じ話題で同じ反応をしたのか知りたいものだ。現代版シンデレラストーリー、そんな例えが出るほどのビッグニュースだったのだから。
 シンデレラの名はKARIN(カリン)。彼女は十四歳の時に清涼飲料水のCMで芸能界デビューし、その爽やかな笑顔であっという間に若者たちの人気を集めた。翌年、初出演にして初主演した恋愛映画も大ヒット、アジアを中心に海外でも異例の興行成績をあげた。テレビ番組への露出を控えめにし、安易に音楽活動を始めたりもしなかったことも評価を高めることにつながった。仕事は女優一本、着実に実績を重ね、十七歳にして日本の数ある映画祭の主演女優賞を総なめにした。
 海外からの出演オファーも数多く寄せられた。そのどれもが主演、またはそれに準ずる扱いだったという。彼女が国際的な名声を得る大女優へと成長していくであろうことに、疑いを挟むものはいなかった。老若男女を問わず支持される、まさに国民的な女優だった。
 そんな彼女が前夜、突然の婚約発表。それどころか女優引退まで宣言したのだ。しかも相手は巨大金融グループの現トップを父に持ち、自らもアメリカでITベンチャーを立ち上げ、めざましい成長を遂げた企業の代表を務める男。何度もモデルにスカウトされた経験をもつ端正なルックスの持ち主だという。
 マスコミも世間も騒がないはずのない話題なのだ。終わったばかりのゴールデンウィーク中の発表だったら、ワイドショーはさぞかし高視聴率を稼いだことだろう。
「だって、白馬に乗った王子様に出会っちゃったんですものぉ」
 四人の中では一番年上の姫乃が、もう何度目かのセリフを口にした。美月より三年先輩の里佳子が、「やっぱりいるんですね、白馬の王子様って」とまたも同じように受ける。さらに美月と同い年の静香も、「私のところにはいつ来るのかなぁ」と続く。さっきから延々と同じ会話がループしている。みな脳内が現実世界から遊離しているように思えた。
「そんなもの、い、ま、せ、ん、よ!」
 三人に向かって言ってやった。昼休みはもう間もなく終わる。現実の世界に戻ってきてくれないと困る。
「もう、美月ちゃんは夢がないわねぇ」
 姫乃が手をひらひらさせながら給湯室から出て行った。
「そう、夢がないぞ」
 里佳子が美月の肩をぽん、と叩いて姫乃の後を追った。
「今夜あたり、美月と私のところには現れるかもよ?」
 静香が先輩二人に聞こえないよう耳もとでささやいた。
「夢は寝てから見ましょうね」
 そう言い返して美月は静香の背中を押すようにして仕事場に戻った。
 ――だって、白馬に乗った王子様に出会っちゃったんですものぉ。
 繰り返し聞かされたせいか午後の仕事の間、頭の中ではそのセリフが延々とリフレインしていた。だって、白馬に乗った王子様に出会っちゃったんですものぉ。だって、白馬に乗った王子様に出会っちゃったんですものぉ。だって白馬に乗った……。
 ええい、うるさい!
 
 仕事を終えてアパートに帰宅すると、美月は冷蔵庫の残り物で簡単に夕食を済ませ、一本のビデオテープをデッキにセットした。
『昔々、遠いところに、小さな王国がありました。伝統を守りながら、国は平和に栄えていました――』
 スタートしたのはディズニーのアニメ、『シンデレラ』。近所のレンタルビデオ店で百円で投げ売りされていたものだ。もともと古いものだったうえに数え切れないほど再生しているため、映像のノイズがひどい。シンデレラの美声もときどきキーをはずす。それでも美月は熱心に見入っていた。展開もセリフもすべて覚えている。それでも悲しいシーンでは心から悲しみ、幸福なシーンでは胸が躍るほどの喜びにひたった。
 シンデレラに自らを重ねていた。自分のもとにも、いつの日か白馬に乗った王子様のような男が現れる、そう信じていた。
 人前では白馬の王子様なんていない、などと反対のことを言ってしまうのは、実は本気で信じているからこそ軽々しくその存在を口にしてほしくない、という気持ちの裏返しの表現なのだった。本当の美月は誰よりも白馬の王子様が現れることを待ち望む、夢みる少女の一面を色濃く持っているのだ。
 だが美月には確信があった。私のもとには、必ず来る、と。その自信はどこからやって来るのかわからないのだが、その確信は美月の中では疑いようのないものだった。このまま歳をとれば、いつか自分にも死が訪れる。それと同じくらい、白馬の王子様との出会いも確実だと思えた。重ねていうが、その自信の根拠は、美月にもわからない。
 人前では王子様との出会いを確実視していることは黙っている。客観的に考えればおかしなことだということはわかっているからだ。仮に誰かに話したとして、初めは、「実は私も信じてるの」と共感してくれたとしても、やがて美月の本気具合を知るにつれて相手がひいていくことは目に見えている。
 それにシンデレラの物語はこういうセリフで始まるのだ。
 ――誰かに話すと、願いは叶わなくなるのよ。
 あの女優、KARINにはやって来た。私にはいつ来るんだろう。
 毛布をかぶり、両手を胸のあたりで軽く組んだ。これは子供の頃から続けている儀式のようなものだ。あるとても素敵な夢を見るための。
 その夢を初めて見たのは、まだ小学校にもあがらない頃だった。舞台は中近世ヨーロッパ風の片田舎、美しい自然が広がる湖のほとり。夢の中の美月はすでに十五、六歳の、当時としては大人の女性に成長している。家柄は代々、その日の食事すら危い貧しい小作人で、衣服は継ぎはぎだらけだ。
 ある日のこと、美月はひとり、しゃがみ込んですすり泣いている。なぜなら親が決めた好きでもない、どちらかといえば嫌悪感を抱いている下卑た男との結婚の期日が迫っているのだ。
「あんな男のもとへと嫁ぐくらいなら、死んだほうがましだわ」
 思いつめた美月は懐から小瓶を取り出し、紫色の液体を口に含もうとする。飲めば必ず死に至る毒薬だ。すると林の奥から人影が近づいてきて、とても穏やかな声で言う。
「お嬢さん、おやめください。そんなことをしては悲しむものがおります」
「そんな人いないわ、みんな自分のことばかり考えているもの」
 悲観しきった思いでそう突き返すと、人影は林を抜けて姿を見せ、憂いを帯びた声を張り上げる。
「おりますとも。この私が、世界中の誰よりも悲しみます!」
 人影は白馬に乗った青年だ。
 白馬は毛並みが流れるように美しく、体躯はギリシャ彫刻のごとく理想的な造形の筋肉でおおわれている。その足で駆ければ、あっという間に国を二つも越えられそうな立派な馬だ。
 そしてその白馬に乗った青年。美月には一目で彼がとても高貴な家の子息であることがわかる。身にまとっているものは目にもまぶしい純白で、全身に繊細な刺繍が施されている。美月の家の家計を十年分貯めこんでも、マントですら到底手が届かないであろう豪華なもの。容姿にも勇敢さと優美さがあふれ、どこをとっても文句のつけようがない完璧な青年だ。
「あなたは、どなた? なぜこんなところにいらっしゃるのですか?」
 美月が不思議に思い問いかけると、青年はゆるやかな風にブロンドの髪をなびかせながら微笑む。
「私はこの国の王子、アントワーヌです。あなたに会いたくて、こっそり城を抜け出して参りました」
 そのすべてを優しく包み込むような笑顔に、美月は胸を打ちぬかれる。心は熱をおび、体ごと空へ舞い上がりそうになる。
「私こそ、私こそあなたのようなお人を、ずっとずっとお待ちしていたような気がします!」
 ジャンジャララーン! そこでタイミングよく大げさな効果音が鳴り響き、続いて美しいメロディーが流れだす。恋愛映画を盛り上げるには欠かせない、甘い甘いラブソングだ。ある時はエルヴィス・プレスリーの『Love Me Tender』、またある時はセリーヌ・ディオンの『My Heart Will Go On』。
 夕日を逆光にして抱きあう二人のシルエット。どこからともなく渋い声のナレーションが流れ、物語をしめくくる。
『そして美月はアントワーヌ王子と結婚し、末永く幸せに暮らしたのでした。めでたし、めでたし……』
 夢はいつもそこで終わり、美月は幸せな気分にひたりながら、さらに深い眠りに落ちていく。
 初めて見て以来、現在に至るまで、毎晩のようにこの夢を見た。とても幸福な夢、文字どおり「白馬に乗った王子様」の夢だ。横になる時に胸の上で軽く手を組むのも、覚めない眠りに落ちたお姫様が王子様のキスで目覚めるという『白雪姫』のワンシーンを意識している。
 この夜も目を閉じている美月はウトウトとしながら、何かに抱かれるような心地よい気分になってきた。毎度のことだからわかる。まもなく、いつもの幸せな夢が始まるのだ。
 実在しない王子様でも今はかまわない。アントワーヌ王子に、また会える。
 
 ピピピピピ、ピチュルピチュ……、ヒバリのさえずりが聞こえてきた。二羽がお互いの存在を確認しあうように鳴きながら空に昇っていく。そのまま見上げると、雲がやや多いものの大きな青空が広がっている。遠くには雪を冠して気高さをまとった山々が連なる。すぐそばには穏やかな水面を保つ湖。足もとでは背の低い、名も知らぬ草花が揺れている。そして少し離れたところに、林。
 気がつくといつもの場所に来ていた。服装も、毎度毎度のボロ布を継いだものになっている。
 この服、もう少しなんとかならないかなぁ……。
 貧しい家の娘という設定上、しょうがないとは思う。だが愚痴らずにはいられない。この後、とても魅力的な男性と出会うことがわかっているのだから。
 鏡のように澄んでいる湖の水面を見て、髪型が崩れていないか確認する。実際の美月は布団で寝ているわけだから、寝癖がついていないか毎回心配になってしまうのだ。
 身だしなみをひととおり確認し終えると、しゃがみ込んでシクシクと泣き始めた。そういう段取りだ。
 いつ頃だったか、泣けなくなったことがある。この夢にはハッピーエンドが待っていることがわかりきっているわけだから、どうしても悲しい気持ちになれなかったのだ。だが泣かないでいると、いつまでたっても白馬の王子様は現れない。何度かはそのまま夢から目覚めてしまったこともある。
 これではたまらない。美月は、「どうしようもない男の家に嫁がなければならない、かわいそうな自分」を必死に想像するようになった。アントワーヌ王子に会いたい一心で、感情を昂ぶらせるのもずいぶんうまくなった。さめざめと涙することも、わんわんと泣き叫ぶことも、今や自由自在だ。案外、私には女優の才能があるのかもしれない。そう思うことすらあるくらいだ。
 そろそろ毒薬を飲もうとするタイミングだ。涙をぬぐいながら懐から小瓶を取りだした。とても貧乏なはずの私はどこでこんなものを手に入れたのだろう。自分が見ている夢でありながら、設定の詰めが甘いんじゃないかしら、と心の中でつっこんでみる余裕すらある。小瓶に入った紫色の液体を眺め、思いつめた表情で栓を抜く。
 さぁ、ここよ。「おやめください!」と林の中からアントワーヌ王子の登場よ!
 期待に胸が高鳴るのを感じながら小瓶に口をつけ、毒薬を飲み込もうとした。正確には、飲み込もうとするポーズで動きを止めた。
 ……だがそのままの姿勢で数秒が過ぎた。
 おかしい、いつもならここで声がかかるのに。タイミングを少しばかり間違えたのかも、とさらに数秒待ってみた。だが声はかからない。
 不思議に思い、ちらりと目線だけを林のほうに向けようとした。その時、口の中に苦く不快な味が広がるのを感じてぎょっとした。林に視線を移そうとした際にやや無理な体勢になり、毒薬を口に含んでしまったのだ。
 ええっ!?
 冷や汗が一気に吹き出した。必死に口の中に残っているものを吐き出そうとする。
 私、死んじゃうの? 美月はこれが夢であることも忘れてひどく動揺した。喉の奥に指を突っ込み、とにかく吐けるだけのものを吐き出そうとした。激しくせき込んで涙がにじみ出てくる。死への恐怖がつのり、こらえきれなくなって大声で叫びだした。
「誰か助けて、私、まだ死にたくない!」
 すると林のほうからガサガサと物音がした。美月はアントワーヌ王子が来てくれたのだと思い、茂みに人影を探した。だがそのあたりから響いてきたのは馴染みのあるアントワーヌ王子の声ではなかった。
「お嬢さん、そいつは毒薬なんかじゃない。紫キャベツの絞り汁だ。命を奪うどころか、逆に胃腸の調子を整えてくれるありがたい代物だぞ」
 初めて耳にするその声は実によく響く低音で、落ち着いているうえに力強さがあった。以前テレビで観た、アメリカ製のアクション映画が思い出された。主演俳優の吹き替えの声によく似ていると感じたのだ。
 だが姿も見えない人間の話をそう簡単には信じられない。
「あの……、私、ホントに大丈夫なんでしょうか。後で突然、倒れたりしないでしょうか……」
 恐る恐る尋ねると、声の主はフッ、と鼻で笑った。
「落ち着いて考えろ。これはお前の夢の中の出来事だ。たとえ毒を飲もうが短剣で喉を貫こうが、現実世界のお前は痛くもかゆくもないはずだ。せいぜい目が覚めた時に寝汗がびっしょりだとか、軽く頭痛がするだとか、そんなところだろう」
「ああ、そうだった」
 美月は一気に冷静さを取り戻した。アントワーヌ王子がなかなか現れない、夢がいつもと違う展開を見せたので、困惑してしまっていたのだ。
「ところであなたは誰なんですか? 確か初登場ですよね。いい声してるのは充分にわかったんで、顔を見せてください」
 夢だと思い直すと、その態度は淡々としたものになった。迫真の演技を終えた役者が、次の瞬間にはさらりと本来の自分に戻っているような感じに。
「ああ、ちょっと待ってくれ。こいつがぐずっててな。ほら、さっさと歩け」
 馬に話しかけているのだろう、林の茂みから浮かびあがったシルエットがゆっくりと近づいてくる。そして林を抜け、美月の前に姿を現した。
「……えっ?」
 相手の姿を目にして、美月は間の抜けた声をあげた。なぜなら目の前に登場した相手は、「馬」だったのだから。人間は乗っていない。馬のみの登場だったのだ。どういうことだろう、としばし考えてみる。
「よぉ、びっくりしたか」
「きゃっ!」
 今度はおかしな悲鳴をあげてしまった。それもそのはず、その声が発せられたのは、目の前の馬の口からだったからだ。よく響く低い声は、間違いなく茂みの奥から聞こえてきたのと同じだった。
「いくら夢だとわかっていても、これにはちょっと驚きだわ。なんていうか、シュールだわ。私にこんな夢を見るセンスがあったなんて……」
 美月はまじまじと目の前の馬を眺めた。
「正しく言うと、ここはお前の夢の中ではあるが、すべてがお前の夢というわけではない。俺の存在自体はお前の頭が作り出したものではないからな」
「よく分からないんだけど」
 理解できずに聞き返すと、馬は少し面倒くさそうにため息をついた。そして後ろを振り返る。
「おい、いつまで隠れているつもりだ。あいつにわかるように説明してやれ」
「えっ……、いや……」
 茂み中から別の声がした。目をやると人影がある。怯えて震えているようにも見えた。
「さっさとしろ」
 馬はいらついた口調で言うと、その人影のえりのあたりを噛んで勢いよく引きずり出した。
「うわわっ」
 情けない声をあげてその人影は美月の前にすべり込むように倒れた。驚いて美月も一歩飛びのく。薄汚れた格好をした男だった。
 馬がもう一度えりを噛んで持ち上げ、男を座らせる。ヒザを抱えうつむいた男はなんとも貧相な雰囲気をかもしだしていた。
「おい、説明しろ」
「……わかりました」
「しっかり顔をあげろ」
「……わかりました」
 男は態度のでかい馬に命ぜられるがままだ。
 あまりに情けないその姿に、美月は男ならもっとしゃきっとしなさい、と言ってやりたい気持ちになった。だが、頭をあげた男の顔を確認するやいなや、おそらく十九年の人生の中で最も大きな叫び声をあげた。その声は寝言として現実世界でも発せられていたかもしれない。
「ア……、ア……、アントワーヌ王子!」
 目の前でヒザを抱えていたのは、幼い頃から夢の中で「白馬に乗った王子様」として憧れ続けてきた、アントワーヌ王子だった。
「いったい、どうしたんですか?」
 信じられない、という思いで問いかけると王子は、これまでの勇壮かつ優美なイメージとはかけ離れた、やや卑屈ともいえる面持ちで答えた。
「なんていうか、まぁ、いろいろありまして……」
 見られたくないところを見られてしまった、という苦々しい口調で、その目は右へ左へと泳いでいる。
 何があったらこんな状況になるの? と美月もへたり込んで呆然としていると、上から馬の声が降ってきた。
「おいおい、その様子じゃ俺が誰かもわかっていないようだな」
「え? 誰、って言われても……」
 見上げながら困惑した。人間の言葉を話す馬など知りあいにはいない。けれども、その馬は白かった。白い馬、つまり「白馬」であることを思い返すと、もしかして……、という考えにたどりついた。
「アントワーヌ王子がいつも乗っていた、白馬……ですか?」
「ようやく気づいたか、失礼なやつだ。今まで何度顔をあわせたと思ってる」
 馬の顔なんてみんな同じに見えて見分けなんかつかないわよ。そう言い返しかけたものの、機嫌をこれ以上損ねるのは危険かもしれないと感じ、喉もとで止めておいた。
「さぁ、しっかり事情を説明するんだ」
 白馬がアントワーヌ王子の肩にどん、と前足を乗せて強要する。「はぁ……」とアントワーヌ王子はいっそう情けない表情になる。王子と白馬の立場は完全に逆転していた。美月は混乱しつつも、わずかに残っている冷静な部分で思った。
「白馬に乗った王子様」が、「白馬に乗られた王子様」になってしまった。いくら夢でも、ひどい話だわ……。
 
 美月は湖のそばの倒木に腰かけた。少し離れたところでは白馬がヒジをついて横になり、あたりに生えている草をはんでいる。うっかりすると人間がテレビを観ながらスナック菓子を食べている姿にも見えそうだ。
「この草、結構いけるぞ。苦味と青臭さのバランスが絶妙だ。お前はなかなか豊かな想像力を持っているようだな」
 一応ほめられたのだろうが、まったく嬉しくなかった。草は、草だ。
「それに比べてひと月前に行った先の草は酷かった。除草剤のような味がして、俺は後で腹をこわした」
 白馬は渋い声で続けているが、美月は無視した。アントワーヌ王子のほうが気になってしょうがない。王子は目の前で正座をしてかしこまっている。
 王子に正座なんか似合わない。ひざをつき、倒木を指して懇願した。
「王子、こちらへお座りください。お着物が汚れてしまいます」
「いえ、私のようなものは、こうしていなければならないのです」
 下々のもののような言葉遣いで王子は断る。
「でも……」
「気にするな、今のそいつにはその姿がお似合いだ」
 白馬が口を挟んだ。
「だいたいよく見てみろ、着てるものだってとっくに汚れちまってるだろうが」
 そう言われてみると王子の、それはそれは豪華だった純白の衣装はみすぼらしく変色している。ひざなどはほころんで穴が開いてしまっていた。
「あなたが王子を引きずりまわしたからでしょ。何よ、さっきからえらそうにして。あなたは馬でしょ、馬は王子に従順でいなきゃ駄目じゃないの」
 腹立たしい気持ちがわいてきて白馬をせめたてた。一瞬、暴れられたらどうしよう、と不安がよぎったが、白馬は気にもとめない様子だ。
「俺のことなどどうでもいい。お前はそいつの懺悔を聞け。そうすればそいつがそういう扱いになっていることへの疑問も不満も解消されるはずだ」
「懺悔?」
 王子が私に謝るようなことなど、あったかしら。王子と白馬の立場が逆転している理由も気になっていたし、美月は王子の話に耳を傾けることにした。
「まず理解していただかねばならないことは、ここは美月さんの夢の中の世界ではありますが、私、アントワーヌと、そちらにおります白馬、ブランは、あなたの想像した架空の存在ではなく、本当に存在するということです」
 正座姿の王子は、しょっぱなから信じがたい話を始めた。美月がすんなりと理解できたのは、あのえらそうな白馬の名前が「ブラン」といういうことだけだった。けれども、どうせ夢の中での話なのだ、とりあえず素直に聞いてみよう、と疑問はさし挟まないことにした。
「私たちの住む世界は、美月さんの暮らす世界とはまったく別の世界です。俗に、『イナミア』と呼ばれています。そこは神々に祝福された幸福にあふれた世界で、すべての存在が終わることのない、永遠の時を過ごしています」
 美月はクールを装った外面とは裏腹に、白馬の王子様を本気で待ち望むような乙女なので、夢の中での戯言(たわごと)とは思いつつも、異世界の話にはそそられるものがあった。シンデレラや白雪姫が暮らす世界も、カボチャを馬車にする魔法や覚めない眠りに落ちる毒リンゴ、魔女や七人の小人などが登場する、ある意味で異世界の物語だ。
「そんな幸せな世界に暮らす私たちには、希望にあわせてそれぞれ一つだけ、神々から仕事が与えられているのです。あるものは明け方に朝の訪れを知らせる音楽を奏でる。またあるものは雲に乗り、乾きかけた大地に雨を降らせる。燃え尽きないように太陽に石炭を注ぐものもいれば、美月さんの世界の人たちのように畑を耕すものもいます。そしてあのブランの仕事は、私を乗せることです」
「それじゃぁ今のあいつは仕事を放棄してるってことじゃないですか」
 指をさして言ってやった。
「まぁおとなしく聞けって。こっちにはこっちの事情があるんだ」
 ブランは後ろ足で人間のように立ち上がり、シャドーボクシングを始めていた。
「アントワーヌ王子は王子様だから、仕事はしなくていいんですよね?」
 美月がそう尋ねると、王子は苦い表情を浮かべながら首を振った。
「いえ、私にも大切な仕事があります。私の仕事は、『白馬の王子様』です」
「白馬の王子様の仕事が、白馬の王子様……?」
 その意味を理解できずに頭を悩ませていると、王子は説明を続けた。
「つまり、白馬の王子様の『役』を演じることが、私の仕事なのです」
「役を、演じる?」
 いっそう意味がわからなくなった。
「はい。私は、美月さんのいる世界に暮らす少女たちの夢の中にお邪魔させていただいているのです。王子の衣装を着て、ブランにまたがって。そして白馬の王子様として少女と出会い、お互いに恋に落ちる。……という演技をするのです」
「王子の衣装って……、あなたは本当は王子様ではないということなんですか?」
「そうです。イナミアの世界ではみなが平等、身分の違いなどありません。あ、ちなみにアントワーヌという名前は本名ですよ」
 あまりにあっさりと王子であることを否定するので美月は戸惑った。
 目の前にいる王子様は、本当は王子ではないという。仮にここまでの話を事実として受け入れたとして、それでは幼い頃から抱いてきた憧れの感情はなんだったのか。目の前の男から、急激に輝きが失われていくような気がした。そもそも見た目のうえでは、すでに薄汚れてしまっていたのではあるが。
「あの、正座がきつくなってきたんで、足、くずしていいですか?」
 王子様役の男、アントワーヌがいまどきの若者のようなことまで言いだした。美月は、「ど、どうぞ」と受け入れるしかなかった。しかしアントワーヌが足を伸ばそうと立ちあがると、横から鋭く空を切る音が響いた。
「ひょえっ……」
 アントワーヌが情けない声をもらす。ブランが右ストレートを放っていた。こぶし、らしきヒヅメは、頬から紙切れ一枚挟まるかどうかというところで、ぴたりと静止している。先ほどのシャドーボクシングは、伊達ではないようだ。
「おいお前、自分の立場が分かってるのか?」
「すっ、すみません、油断してました」
 ブランの鋭い視線にアントワーヌはあわてて目をそらし、伸ばしかけた足を正座に戻した。
 美月はゆっくりと深呼吸し、落ち着いて頭を整理してみた。すると一つの疑問にたどり着いた。それをブランとアントワーヌに投げかける。
「なぜこんな話を私に聞かせるんですか? たとえ事実だとしても、いや事実ならなおさら、私は知りたくなかった。今夜もいつものように白馬の王子様に出会い、恋に落ちて、幸せな気分にひたりたいだけだったのに。こんな話をされたら、明日からアントワーヌさんが林から現れるシーンでも全然ときめかないと思います。白馬の王子様は偽者、って知ってしまったわけですから」
 まくしたてるように言った。戸惑う気持ちを素直にぶつける。
「これは夢だから、今の話も全部嘘。そうなのかもしれません。だけど一度疑いの気持ちを持ってしまったら、もうこの夢の物語に純粋な気持ちで入り込むことはできないと思います」
 悲しさや腹立たしさが複雑に入り混じった感情がわいてくる。泣きたくもあり、怒りたくもあった。アントワーヌは申し訳なさそうな表情でうつむいた。一方でブランはまっすぐに美月を見すえ、落ち着いた声で諭すように言った。
「知らせなければお前のためにならない。そういう事態になってしまったんだ」
「そういう、事態?」
「言っておくがこれから起こること、話すことは決して夢なんかじゃないからな」
 話はやや遠回りしながらも、本題に向かいつつあるようだった。

                          (第1章終わり)

装画・石岡ショウエイ
装幀・カマベヨシヒコ
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