一
「お客さんって、ほんとに日本族?」
「そうですよ。名前はケンジだし、日本語だって訛ってないですよね」
「京都に来たのはお仕事? それとも遊び?」
「いちおう仕事ですかね」
「ずいぶんと若く見えるけどいくつなの?」
「あなたの年を教えてくれたら教えてあげますよ。あっ、でも法律に触れるような年じゃないですから安心して下さい」
あたしにプロ失格の質問を連発させた男は、街妹(街娼)を買うなんて十年早い若造だった。しかも、超美形。
守っていることが美徳と思われている女と違って、男のそれは、早く捨てた者ほど男の中での評価は高いらしい。春先になるとニキビ面の可愛いチェリー君が、複数であたしたちを買いにくることがたまにある。けど、この男はひとりだったし、若く美しい容姿に反してどこかオッサンぽい。
普段ならそこかしこから喘ぎ声が漏れてくるラブホの廊下は静まりかえり、切れかけた非常灯だけが姦しく点滅していた。茄子色の明かりの下では、ケンジと名乗った男の笑顔は老獪な賢者のようにも思春期真っ盛りのクソガキのようにも見えた。
「ほお、なかなかエキゾチックな部屋ですね」
部屋へ入るなり、ケンジは着ている服を無造作に床へ脱ぎ捨てていった。嫌味ではなく、ケンジには荒廃した一番安いこの部屋が異国情緒に溢れて見えるらしい。
ケンジの肌は女の子みたいに白くて艶やかで、触れたら西米(タピオカ)も裸足で逃げ出すほどの弾力だった。
「一緒にシャワー浴びるんですよね。君は脱がないんですか?」
しまった……先に脱いでおくんだった。
お客さんより先に脱いでシャワーへ誘うのが仕事をスムーズに運ぶ鉄則のひとつなのに、あたしとしたことがケンジの場違いな空気に気をとられて出遅れてしまったのだった。
あたしを見つめるケンジの立ち姿は、まるでどこかの偶像(アイドル)みたいに洗練されていて、このおんぼろラブホでは浮いていた。ケンジの上品な笑顔は上等な包子を連想させ、あたしの食指と羞恥心をくすぐる。
ああ、これは何かの罰ゲームなのかしら。
美少年(?)にじっと見つめられながら裸にならなきゃいけないなんて、新年早々ついてるんだか、ついてないんだかわからない。羞恥プレイは苦手なのよ。
(あんな綺麗な顔と肌を見せつけられた後じゃ、脱ぐのを躊躇うのはしかたないじゃない。しかもよりによって今日ときたら……)
あたし、桐之宮稲荷だって若さ溢れる十八歳の女の子! 顔はともかく、お肌の張りは負けてないはずだわ。
清水の舞台から飛び降りる覚悟で、毛糸のセーターとシャツと防寒用のラウンドネックの肌着をいっぺんに脱ぎ捨て、その勢いのままコットンベロアのズボンを、下に穿いていたタイツごと放り投げた。
「娼婦の方は過激な下着をつけてるのかと思ってましたが、普通の女の子みたいなんですね」
そう突っ込まれる前に、すべて脱ぎ捨ててしまいたかった。
「たまにはこういうのもいいと思って。お嫌いかしら?」
せめて精一杯セクシーポーズをとってみたけれど、お臍まであるボクサーパンツじゃきまらないのもいいとこだ。
だってだって、寒くてしかたなかったんだもん。女の子は体を冷やしちゃいけないのよ。
だいたい、一月一日なんて街に立つのは娼婦仲間との顔合わせであって、お客を引くのが目的じゃない(そもそも、引くべきお客もいない)。
だから、娼婦としてあるまじき、油断しまくりの非戦闘下着でもしかたないじゃない。
「そのアンバランス感が、かえってそそりますね。それよりも早くこっちへきて下さい。寒くなってきました」
「ごめんね。お待たせ」
暖房だけはしっかりときいた部屋と違い、バスルームはカビ臭くひんやりしていた。
シャワーの栓を捻ったが、なかなかお湯が出てこない。無機質に床を打つ水の音が、寒さと混ざって肌を刺した。
「おっぱい大きいんですね。街角に立っているときには気がつきませんでした」
「百パーセント天然物よ。てへっ」
ケンジが背中越しにぴったりとくっついて、あたしの胸を下から持ち上げた。ケンジの体温が背中から伝わったら、不思議なくらい寒さはどこかにいってしまった。
水しか垂れ流していなかったシャワーにようやく湯気が立ち始めた。足元に流れる水の温度が上昇していくのにあわせるかのように、あたしのお尻に触れていたケンジのモノが固くなっていく。
「やっぱり、天然物は違いますね」
「触っただけでわかるの?」
「もちろんです。神が創りしものと、人が造ったまがい物の区別ぐらいつきます。しかも、こんな一級品ならなおさらですよ」
耳元で甘いマスクに囁かれても、あたしの胸はなぜか高鳴らなかった。
泡立ちの悪いボディーソープをあたしの胸の谷間にたらし、ケンジが全身を洗ってくれる。あたしも負けじと手のひらにたっぷりとボディーソープをたらし、ローションプレーを意識した淫靡な手つきでケンジの全身を撫でつけた。
ムード満点。いつもなら体も心もお仕事モードに急上昇するはずなのに、あたしはちっとも濡れてこない。なかなか起動しない身体になんとかスイッチを入れるため、クルリとまわってケンジにディープキスをかました。
「もう出ましょう。続きはベッドで……ね?」
滅多にしてあげることのないキスを、唇のはしから唾液が糸を引くほどに激しくしてたってのに、スイッチはいまだ入らず。
ケンジは何も言わず、バスルームを出ていった。きっちりと胸元からバスタオルを巻きつけて、あたしもバスルームを出た。
ケンジはベッドに転がり、部屋にあるゴミと同義の調度品をもの珍しそうに見ていた。ベッドまで続く床には、あたしとケンジが脱ぎ捨てた服が縦横無尽に散らばっている。お行儀の悪いあたしは、服を踏みつけてケンジの元に向かったが、
「おろ?」
踏みつけたケンジのジャケットの襟首から金の刺繍が覗いた瞬間、凍りついたように足が固まった。
ジャケットの襟首には最高級紳士服ブランド「皇冠」のロゴが燦然と輝いていた。厳かに足をジャケットからどかし、普段はお客の服なんてほったらしなんだけど、ブランドロゴの力に屈してハンガーにかけた。
「どうしました? 続きをしないんですか。まさかあれで終わりじゃないですよね?」
この男、いったい何者なの? 疑惑の瞳をケンジに投げかけてみるが、本人はどこ吹く風といった様子だ。
蛍光灯に照らされた、生まれたままの姿のケンジをじっくりと値踏みした。
ケンジの裸身には、まったくと言っていいほど筋肉がなかった。細い体に適度にのった脂肪が、硬い感じのする男の体に柔らかな曲線を描きだしている。無駄毛だって一本も見当たらない。基本が肉体労働の日本族がどういう家庭環境で育ったらこんな体になれるのだろう。
ケンジは顔も体も、まるで少女マンガに出てくる男の子みたいで、男の裸なんて見慣れているはずなのになんだかドキドキしてきた。きっとじっくり見つめすぎたせいだわ。
「お金。先払いが基本だから。何か特別なサービスがして欲しいなら先に言ってね。始めてから言ってもダメよ」
バスタオルの端をきつく握りながらぶっきらぼうに言うことで、あたしは心の平静を取り戻した。
「いくらですか?」
「言わなかったかしら?」
「忘れてしまいました。すいません」
あたしは大仰にため息を吐いた。ほんとは値段なんてひと言も言ってない。
「二十五万円。追加サービスはひとつにつき五万円よ」
相場より十万円もふっかけてしまった。この値段なら日本族の街妹じゃなく、大陸の小姐が買えてしまう。けど、仕事の都合で興味本位にやってきた人間が、また遊びにきてくれる可能性はゼロに等しいし、何よりケンジはすこぶる怪しいが、世間知らずのお坊ちゃんである可能性が高い。あたしの頭はそう判断したのだった。
「うーん、困りましたね」
ベッドから起き上がり、ケンジは床に散らかった自分の服をかき集めはじめた。
しまった。ふっかけすぎたかしら……。帰るなんて言い出したらどうしよう。
「でもでも、お兄さんいい男だから、もうちょっとまけてあげてもいいわよ」
お腹の底から色気を絞り出し、誘うようにバスタオルを取った。けど、ケンジは見向きもしない。
「日本円、持ってないんですよ。廃止になっていないのは知ってましたけど、いまだに貨幣として使っているところがあるなんて驚きました」
ケンジはかき集めた服の中から財布を発見し、小さくため息を吐いた。
「日本円の相場はわからないですが、これで足りますか?」
鴕鳥(オーストリッチ)の財布から出てきたものは、なんと五百元札。
五百元札に印刷された于副国家主席と目が合った瞬間、目眩にも似た感覚とともに血圧が一気に上昇した。
「しょ、しょうがないわね。今回は特別よ。そのかわり、また遊びにきてね」
口元が笑ってしまうのを必死に抑えながら、差し出された五百元札を奪うようにむしり取った。
「それは、これからのサービスしだいですね」
お金を財布にねじ込むあたしに、ケンジは挑発するような笑みを向ける。
「それはまかせといてニャ」
相場の三倍以上のお金をもらったんだから、サービスしないわけにはいかない。なによりも、日本円ではなく人民元で支払ってくれたことが、あたしのやる気に火をつけた。
わざと四つんばいになって、ケンジの元へ歩く。お尻ふりふり、雌豹気分で歩きながらも両脇はしっかりと閉めて、あたしの持つ最大の武器である谷間を強調した。
安物のパイプベッドは、あたしが乗ると派手な音を立てて軋んだ。肌触りの固いシーツに膝をたてながら、ケンジの半勃ちになっている股間に、獣のように噛みついた。仔猫が甘噛みするように何度も噛みつくとすぐに硬くなった。
「さすが、プロは違いますね」
ケンジは余裕の笑みを浮かべていたが、声は熱く湿っていた。ケンジを上目使いで睨むように見つめてから、一口で銜える。
いやらしく音を立てながら、あたしもわざとらしく甘い吐息を漏らす。ケンジから余裕の笑みが消え、息が荒くなっていく。あたしの劣情をかきたてるはずの、端整なケンジの顔。あたしの舌に反応するケンジの顔を見ながら、あたしは焦っていた。
まったく濡れてこない。
心は天を焦がすほど燃えているのに、体は凍りついたように反応しない。自分でも触っているのだが、まるで乾鮑になってしまったかのように少しの潤いもなかった。
焦れば焦るほど頭の芯は冷めていき、観察に徹してしまう。そうなると、目は自然と気になる場所に向くのが人間ってもんだ。
こんな商売をしていると、嫌でも見抜いてしまうことがふたつある。それは、カツラと包茎手術あとだ。最近じゃ、手術跡が残らず包茎どころか巨根にもなれる、iSP細胞による陰茎付け替え手術なんてものもあるが、やりたがる男が少ないらしい。
断言できる。ケンジの髪は間違いなくヅラだ。
こんなに若いのにハゲてるなんて可哀相……。淫猥な音をたててしゃぶりながら、ケンジの頭に哀れみの視線を向けた瞬間、
「そろそろ攻守交替しましょう。やられっぱなしは僕の性にあわないですから」
どうやったのか、あたしは仰向けにひっくり返された。上にのったケンジの額には、偽物の髪が汗で張りついていた。
あっけにとられている隙に、ケンジの手があたしの下腹部に伸びる。
「ちょっと、待って……あっ」
ケンジの細い指が触れた瞬間、ダムが決壊したかのように一気にあふれ出した。それと同時に体の芯から湧きあがってきた快楽の波に、あたしは飲み込まれた。
(や、やばい)
あたしの中に先ほどとは真逆の焦りが広がった。
ケンジの指が動くたびに、自我が吹き飛ぶほどの波が襲いかかってくる。
ケンジの背中に爪をたて、しがみつく自分を必死に制御しようとしたが、暴走した体は頭の指令を受けつけない。
あたしの薄っぺらなプロ意識が陥落するのは、もはや時間の問題だった。
快楽に完全に呑まれるのは娼婦失格。この仕事に就いたとき、一番初めに教わったことだった。もちろん、お仕事の中でもイクことはあるし、テクに自信があると自称するアホ男ほどイカせようと躍起になってくる。そんなときにはイッたふりをして、激しく乱れると満足してくれる。
運がいいのか悪いのか、溺れさせられるほどのテクを持った男に、あたしはこれまで当たったことがなかった。
ケンジの指が動くたびに、あたしの理性を削りとっていく。その感覚はまさに溺れるという言葉がぴったり。頭は真っ白になり、もはや自分がどんな状態なのかもわからない。
(もう……だめ)
快楽の波が理性を完全に飲み込もうとした瞬間、嵐がピタリと止まった。
「ああ、いい……。もう、イキそうです」
ぼやけた視界が鮮明になると、ケンジが間抜けな顔で腰を振っていた。
ケンジの腰使いはチェリー君と変わらない貧相なものだった。さっきまでの指使いとのあまりの落差に、あたしは喘ぎ声を出すのさえ忘れてしまうほど驚いた。
今までが全て夢だと言われても信じてしまえるほど、体は再び無反応になっていた。
呆然としている間に、あたしの上でケンジは勝手に果てた。あたしの胸に顔をうずめ、ケンジが荒い呼吸を整えている。背中についた爪あとが、ケンジの指とチンコが別々の人間でないことを証明していた。
萎んだモノから套套(コンドーム)を素早くひきぬき、口を縛ったあと適当に投げ捨てた。くわえている隙に装着させて正解だったと、今になって冷や汗が出る。
ティッシュでケンジを綺麗に掃除してあげながら(ほんとだったら口で綺麗にしてあげてもいい金額なのだが、あたしは自ら進んであんな苦いもんを舐めようとは思わない。世の男どもも一度、自分のを飲んでみればいいんだ!)、ケンジの指を穴があくほど見つめてみた。なにか細工がしてあるとは思えない、羨むほどの綺麗な指がそこにはあった。
「どうしました、真剣に見つめて。そんなに指がよかったんですか?」
「そんなオジサンみたいなこと言っちゃ、綺麗な顔が台無しよ」
「僕の指にかかればどんな女もイチコロなんですよ。なんたって、神の宿る手ですから」
ケンジが傷ひとつない指を、あたしの胸の谷間に這わせる。そんな単純な仕草だけで、あたしの体は過剰に反応してしまう。
「あれ? 絆創膏なんて貼ってあったかしら?」
あたしは今になって、ケンジの右手の甲に絆創膏が貼られていることに気がついた。あたしのアゴに貼られているものよりも、ひとまわり大きな絆創膏には、マジックで変な絵とも文字とも見えるものが書いてあった。
「会ったときからずっと貼ってありましたよ。もしかして、今まで気がつかなかったんですか?」
あんなにケンジをじっくりと値踏みしたんだから、絆創膏が貼ってあれば見落とさないはず。
「ほんとに会ったときから貼ってあった? あたしが綺麗にしてあげてたときに、こっそり貼ったんじゃない?」
「仮にそうだとしても、どこから絆創膏を取り出したのか教えて欲しいですね」
ケンジの顔は同級生の弱みを見つけた、いじめっ子そのもの。あたしも何かとんでもないミスをやらかしてしまった気分になり、ベッドから逃げるように抜け出した。
「シャワー浴びてくるけど、一緒にどうかしら?」
「僕はあなたに会ったときから、あなたのアゴに絆創膏が貼ってあることに気づいていたのに。寂しいかぎりです。お金で買った関係だとはいえ、まったく僕に興味を持ってくれていない」
ケンジは流し目で、あたしを見つめた。娼婦顔負けのケンジの仕草に、確信犯だとわかっていても罪悪感を覚えた。
「そんなことないわ。毎日遊びにきて欲しいと思ってるわよ」
人民元が欲しいから――喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
「ほんとですか?」
「ほんとよ。でもね、こんな言葉があるのを知ってるかしら? 『二度通うは男の器量、三度通うは女の器量』ってね」
「古い言葉を知ってるんですね。もちろん、今度もあなたに声をかけますよ。それより、三度行ったら馴染みになってくれるんですか?」
今から五百年ほど前、遊郭と呼ばれた娼館で働く娼婦たちが使っていた言葉を、ケンジはなぜか知っていた。あたしもつい最近、知ったばかりなのに。
「馴染みって、常連さんのことでしょ。あたしはいつでも大歓迎。いっそのこと老公(愛人として囲ってくれる御主人さま)になって欲しいぐらいよ」
半分本気で半分嘘。金払いのよさだけ見れば、確かにケンジはあたしが相手をしたお客の中では最上ランクなのだが、どうも信用できない。それに老公はある程度素性がわかる人じゃないと怖いわ。
「女の人は嘘つきですから」
世界中の女を知っているかのような顔で、ケンジは小さくため息を吐いた。
「あら、男だって嘘つきよ。また来るよって言って、男はいつも来ない。あたしは男が来るのをひとりで寂しく待ってるのに」
バスルームの扉に手をかけ、ケンジに背を向けたままでうつむいた。
男が好きな弱い女ってやつを演じてみたものの、どうも性に合わない。ケンジにはそれなりの効果があったのか、ベッドから体を起こす衣擦れの音が聞こえた。
「僕はそんな寂しい思いをさせませんよ……稲荷さん」
唐突に呼ばれた本名は、あたしをブリキ人形のような動きにさせた。少し開いたバスルームの扉から冷たい空気が背筋を駆け抜けていく。
ギギギ、と音がしそうなぎこちない動きでケンジの方向に首を動かした。
「どうして、あたしの名前を知ってるの?」
ケンジの爽やかな笑顔が無性に怖く感じた。容姿端麗、才色兼備な男も、場所によってサイコな殺人鬼に見えなくもない。妄想は悪いほうへとひた走り、「稲荷山の娼婦、美少年にホテルで惨殺」なんて記事が頭の中をよぎった。
「声をかけたとき、お友達と輪になって話してましたよね。その時に名前を呼ばれてたのを偶然聞いたんです」
「そ、そうなんだ」
「驚かせてしまったみたいですね。ごめんなさい」
「ううん。そんなことないわよ、大丈夫」
笑顔を浮かべたけど、ひきつってしまった。大きく息を吸ってみたが、動悸が治まらない。シャワーを浴びて気持ちを落ち着けようと、バスルームに入った。シャワーの栓を握った手は少し震えていた。
「しかし、稲荷山だから稲荷なんて源氏名は少し安直な気がしますが」
ケンジの声を近くに感じて振り返ると、バスルームの扉に手をかけて立っていた。一度芽生えた恐怖心は簡単には拭うことができず、ケンジの手に何も握られていないことを無意識のうちに確認してしまう。
「そ、そうかな」
「でも、僕はいいと思いますよ。稲荷という名前、あなたにすごく似合っています」
青色の栓を思いっきりひねり、出てきたシャワーの水に頭を突っ込む。水は予想していたよりもはるかに冷たくて、半ば本気で驚いてしまった。けれども、そのおかけでケンジへの恐怖心は吹き飛んだ。
「ありがとう。けど源氏名だから、もっと可愛い名前のほうがいいと思うの。ケンジさん、あたしに可愛い名前つけてよ」
稲荷ってのは源氏名じゃなくて本名だから、お客さんに呼ばれるのは抵抗があった。
赤色の栓をひねり、シャワーをお湯に変えた。おんぼろシャワーから今度は熱湯が出てきて、のぼった湯気でケンジの姿が見えなくなった。
「名体不離と言って、名は体をあらわします。名を変えるということは、その人も変わるということです。僕は稲荷さんが気に入っているので稲荷さんのままでいいです」
「なんか、お坊さんのお説教みたいね。ねえ、こっちに来ないの?」
湯気がおさまったら、いつの間にかケンジは服を着ていた。
「じゃあ、僕はそろそろ帰ります」
てっきりシャワーを浴びて二ラウンド目に突入するのかと思って、心の準備をしていたあたしは少々拍子抜けだった。若いのに淡白なのね。
「稲荷さんとの冗談、楽しかったです。約束どおり、また会いにきますよ。再見」
冗談? あたしにはジョークを言った憶えはないが。
あたしが首をかしげている間にケンジは音もなく扉を開け、すり抜けるように出て行った。
ケンジのいなくなった扉を少しだけ眺めたあとで、あたしはバスルームの扉を閉めた。出しっぱなしにしていたシャワーは適温になっていたので顔を上に向けて思いっきり浴びた。
「なんか変な男だったな、金払いはよかったけど……ほんとにまた来てくれるのかな」
あたしはシャワーを止め、曇った鏡を覗き込む。五百元札を思い出して緩んだ顔の下側には半分以上剥がれた絆創膏がかろうじて貼りついていた。瀕死の絆創膏を指で摘んで剥がした。絆創膏の下に隠された忌々しいアザが全容を現わしたその時、
(ようやく終わったようじゃの)
タイミングを見計らったようにアザが鈍く光り、アザの中から狐のような姿をしたウガが飛び出してきた。仔猫ほどの大きさのウガに向かって、あたしは丸めた絆創膏を投げつけた。絆創膏は虚しくウガをすり抜け、排水溝にお湯とともに流れていった。
「終わったからって、出てこなくてもいいのよ」
(おぬしの仕事中、ずっと静かにしておるのは退屈なものじゃぞ)
湯気と一緒にフワフワとあたしの頭上を漂いながら、ウガは猫みたいに伸びをした。
(それにしても、今日はずいぶんと乱れておったの。おぬしの好きそうな顔をした男じゃったが、性技は稚拙じゃったぞ。あんな年端もいかぬ若造に翻弄されておるのは、まだまだ修行が足りぬ証拠じゃ)
「うるさいわね、いったい何の修行なのよ。だいたい、神聖な巫女は処女じゃなくちゃいけないんでしょ。それが処女じゃないうえに床上手になってもいいわけ?」
(なにごとにも精進しろということじゃよ。おぬしは天宇受売命の血をひく巫女じゃ。おぬしが娼婦であることも運命なのかもしれぬぞ)
「あたしはそんな戯言信じてないんだから。娼婦であることがあたしの運命なら、もっとお客がついてもいいんじゃない?」
バスルームを出たあたしは、バスタオルを首にかけならがら床に散らばった服を拾い集めた。ウガはあたしの頭上を漂いながら、小さくため息を吐いて、身に纏った青白い炎を揺らした。
(神であるわしの言葉を信じぬとは、罰があたっても知らぬぞ)
「もう十分すぎるほどあたってるわよ。ウガはいつまでたっても出ていってくれないし、自由に外に出歩けなくなるし。あたしにとってウガは、神は神でも厄病神ね」
(おぬしがわしを神として崇めぬから、いつまで経っても商売がうまくゆかぬのじゃぞ)
この自称神さまであるウガがあたしの中に住み着いてから、早いもので半年以上経った。馴れとは恐ろしいもので、ウガとの憎まれ口のやりとりも最近では日常のひとコマになりつつある。
ウガがあたしの中に住み着いているせいで、アゴにできた如意宝珠のアザが消えることはない。美少女(自称)であるあたしの顔には、つねに絆創膏が貼られることになってしまった。顔に傷がある女なんて思われちゃ、お客のつきが悪くなるではないか。アザがせめて可愛い形だったら、ファッションでタトゥーを刺(い)れてると言い張ることも可能なのに……なんて考えながら、アザの上に新しい絆創膏を貼りつけた。
(仕事も終わったことじゃし、まずは腹ごしらえじゃな。初仕事の後なのじゃから、久しぶりに美味いものが食べたいものじゃ。今日はけっこう稼いだのじゃろ?)
絆創膏をすり抜けて、ウガがアザの中へ戻った。頭の中に響くウガの声を無視して、あたしは手早く服を着て、重い鉄の扉を開けた。
受付の李おばちゃんは座椅子でくつろぎながら眠そうな顔でテレビを見ていた。あたしが声をかけるとチラリと横目で見て、左手の人差し指を小さく振った。李おばちゃんに小さく会釈をして、あたしはホテルの扉を開けた。その瞬間、肌が半分に縮んでしまうかと思うほどの冷気に全身が曝される。
「うわ、また降ってる。どうりで寒いはずだわ」
鴨川の堤防へ続く坂道をのぼると、小豆色の街は練乳をかけたように雪で白く染まっていた。
いつもなら川向こうに建つ、高層ビル群が放つ明かりを眩しく感じるのだが、雪のカーテンに遮られてぼんやりとしか光を見ることができなかった。雪の絨毯を敷き詰めた堤防を百メートルほど歩き、薄暗い路地を下った。
俗称・妹妹通りなんて呼ばれている、あたしたちがお客をひく道には、客も娼婦の姿もなかった。
あたしが踏み歩く雪の音だけが、誰もいない路地に響く。雪は音を吸い込んで、世界をシンとさせる。うらぶれた路地を歩きながら、ハードボイルドぶりっ子気分でコートの襟なんかを立ててみた。
ぶりっ子気分に浸るのもつかの間、路地を抜けたらあれよあれよと人が増えてきて、高瀬川をすぎたあたりから、人ごみに揉まれながら歩く羽目になってしまった。新年だからなのか、公安警察(ここが一番のお得意さんなのだ)の建物周辺まで露天が立ち並んでいる。稲荷山の入口まではまだ少し距離があるのに、道行く人は日本族ばかりのように感じた。
(祈るべき神さまを自分で捨てたってのに、日本族は何を考えてんだか)
中国との合併が決まる一年ほど前に起こった、日本族による日本文化排斥運動、廃神希釈によって神社は徹底的に破壊され、日本の神さまたちは無残にも捨てられてしまった。神社跡地にはもはや神さまは祭られていないのに、なぜか旧日本族は新年に神社跡地に集まる。
「稲荷ちゃん、今帰りかい? 寒かっただろ、今日は日本族の新年だから、特別に甘酒をごちそうするよ」
「わあ、ありがとう。おばちゃん」
邱おばちゃんは耐寒装備で達磨みたいになっていた。
JRの駅前にあるおばちゃんの屋台も今日は新年仕様で、甘酒やら焼酎のお湯割りなどが並んでいる。
電気プレートにかかっている寸胴鍋に直接紙コップを突っ込んでいれた甘酒を、邱おばちゃんが無造作にあたしに差し出した。甘酒は姜(ショウガ)の匂いと粉っぽい合成甘味料の味しかしなかった。それでも冷えた体には嬉しい飲み物だった。
「まったく、今年はこの寒さで雪まで降ってるのに、飽きもせずにたくさん来るもんだよ。あたしにとっちゃ商売繁盛で嬉しいけど、正直理解できないね」
あたしにしか聞こえない大きさで、邱おばちゃんは中国語でつぶやいた。どう答えていいのかわからないあたしは、聞こえなかったふりをして大きな音をたてて甘酒をすすった。
台湾人である邱おばちゃんから聞いた話では、台湾が中国から独立した当初、先進化政策(中国との文化的差異をつけるのが目的だったそうだ)で春節を廃止しようとする運動があったらしい。けれども結局それは失敗に終わり、広大なアジアの中で日本族だけが頑なに正月を祝っている。
「毎年思うんだけど、こんだけ人がいるなら、少しは妹妹通りに遊びにきてくれてもいいんじゃない?」
「しかたないさ。この時期、大陸人は稲荷山によりつかないし、何の意味があるのかはわからないけど、新年だけは同族の女を買わないのが日本族の暗黙の約束なんだろ? まあけど、稲荷ちゃんたち日本族の女は何か奢ってもらえるんだから、羨ましいかぎりだよ」
「あたしはしみったれた旧日本族なんかに奢ってもらいたくないわ。運気が下がっちゃう。お酒や食べ物を奢るお金があったら、お客として使って欲しいわ」
同じ日本族なのに、あたしは日本族独自の文化がいまいち理解できない。廃神希釈も、その後に神社跡地にスラムを作ったことも、新年に集まりバカ騒ぎをすることも。
旧日本族のおっさんたちは、過去の栄光である経済大国日本を忘れられないらしい。けど、生まれた時から日本族のあたしから見ると、旧日本族は自ら進んで最下層民族に成り下がったとしか思えなかった。
(やはり新年の雰囲気というものはいいものじゃのお)
捨てられた当事者であるはずのウガは、甘酒のおかげかご機嫌のご様子。
「ごちそうさま。ありがとね、おばちゃん」
「明日は休みなんだろ? 最近、稲荷山に籠もってばかりじゃないか。稲荷ちゃんは若いんだから、たまには遊びにいかないと腐っちまうよ」
「そのつもりよ。寒いなか頑張って、風邪ひいちゃ意味ないしね」
紙コップを地面に捨て、異様な熱気に包まれた稲荷山へ踏み込んだ。何か目的があるわけではない酔っぱらいたちがフラフラしていて、あたしの家路を邪魔してくる。顔を真っ赤にしたおっさんたちが、露店の椅子に腰かけて日本語で話しながら大声で笑っている。その横を仏頂面ですり抜けた。
あたしは肩に薄く積もった雪を払った。粉雪は吹き抜けた風に巻かれて宙を舞う。それを追って見上げたら、稲荷山に灯る杏子色の光が雪と混じって幻想的な円舞を踊っていた。
あたしはポケットからショートホープを取り出して火を点した。深く紫煙を吸いこみ、白い息とともにゆっくりと空へ吐き出す。
「今年はいい年になりますように」
白い息は稲荷山の熱気と混ざり、夜の闇に溶けていった。
(第1章終わり)