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私は六畳一間のアパートにこもり、原稿用紙に向かい合っていた。
開け放たれた窓からは十月の爽やかな風が吹き込み、机に積まれたコピー用紙の束をはためかせている。ときおり子どもが遊ぶ声や、町内を回る不要品回収車のスピーカー音が、風に乗り私の耳元まで運ばれてきた。
そんなうっかり昼寝をしてしまいそうな平日昼間の長閑さも、残念ながら私は享受することができない。目の前の机には大きめのケント紙が置かれ、私がペン入れするのを待っている。
一度大きく息を吐くと、私はつけペンにインクをつけて、「えいやっ」と紙の上に着地させた。一本一本ていねいに、下描きの線をなぞっていく。紙の上をペンが行き来するたびに、シャッ、シャッと小気味のいい音がした。
『どう責任を取ってくれるんだ?』
原稿用紙の半分を占める、少年の顔のアップ。その隣に、でかでかと鉛筆で台詞が書き込まれている。山場のシーンなので、もちろんふきだしも特大サイズだ。少年は切なげに眉をひそめ、もてあました感情を主人公にぶつける。『君の魅惑的な背骨のラインが、俺を狂わせたんだ――』
ああ、悩める美少年! これぞ少女漫画の醍醐味よね!!
私はうんうんと何度もうなずきながら、自分で描いた原稿を前にだらしなく口元を綻ばせた。
現在私の脳内では、学校一のモテ男と、背骨のS字カーブだけは美しいけどいまいち地味な少女による、壮大な学園ラブストーリーが繰り広げられていた(あ、ちなみにヒーローは極度の背骨フェチという設定である)。現実世界ではめったにお目にかかれない、イケメンと平凡な女子がくっつくという奇跡が頻発するのは、少女漫画のお約束だ。もちろん我が作品もご多分に洩れず、ラストにはハッピーエンドが待っている。
「こんな甘酸っぱい青春、どっかに落ちてないかなあ」
椅子に座ったままゴロゴロと床をすべり、漫画で埋め尽くされた本棚から一冊のコミックスを抜き取った。今、巷で大人気、映画化までされちゃってる少女漫画だ。
一応高校生向けだけど、私みたいな二十代女子にだって充分すぎるほど面白い。いやむしろ、学生時代にこんなきらきらしい青春を送ること叶わず、現在進行形で大人の恋愛のシビアさを噛みしめている世代にこそ、こういうピュアな少女漫画は支持されているはずである――。コミックスをぺらぺらとめくりながら、そんなすでに何万回も考察したことを、もう一度なぞるように考えた。
では私が今シビアな大人の恋愛をしているか、といえば……浮いた話すら、とんとご無沙汰なのであったが。自分としても、インクで汚れたジャージ姿で机にかじりつき、妄想で顔をとろけさせているこの姿は、年ごろの乙女としてはかなりNGだと思う。そのくらいの客観性は、私も死守しているつもりだ。
それでも、今手の中にある漫画みたいに、幅広い世代の女子をときめかせるような漫画を描きたい。その切実なる願いを成就させるためには、家の中での格好になど構ってはいられないのだ。
再びゴロゴロと机の前に戻り、ペンを取った。ペン先をぽちゃりとインク瓶の中に落とす。すうっと大きく深呼吸。そのまま顔を上げると、壁のカレンダーの隣に貼られた、マジック書きの文字が目に飛び込んできた。
『〆切まであと50日!!
今度こそ! 脱・Bクラス!』
私はもぞもぞと尻肉の位置を直し、気合いを込めてペン入れを再開した。
私が初めて漫画(のようなもの)を描いたのは、はるか小学生時代にまでさかのぼる。
小さいころからお絵かきが好きだった私が、一枚のイラストから漫画という形態に自己表現手段を変化させたのは、ごく自然な成り行きだった。
とはいえ、無垢で飽きっぽい子ども時代のこと。私の処女作ともいえるその漫画(のようなもの)は、表紙を含めわずか三ページで打ち切られた。
要するに、飽きたのだ。
まだ幼い生命からほとばしる情熱を注ぎこみ、私は渾身の表紙を完成させた。にもかかわらず、いざ本文へと取りかかるころには、あんなに膨れ上がっていた脳内のストーリーはみるみるうちに萎んでしまっていた。
表紙を描き上げて満足したのか。はたまた画力の壁にぶち当たり、思うように表現できない現実に打ちのめされたのか。今となっては自分でもわからない。もしかしたらその両方かもしれない。
ともかく私の処女作は、軟体動物のごとき人間が謎のポーズを決めた表紙、プラスおざなりな二ページのみで終わりを迎えた。そして小学校高学年になり部活動が始まると、漫画を描くという行為自体、記憶の彼方に忘れ去られてしまった。もちろん私の処女作の行方は杳として知れない。
そうして中学校、高校と「そこそこ漫画も好きな普通の女子」として平々凡々な人生を歩んできた私が、漫画を描くという行為と再会を果たしたのは大学に入ってからだった。
人並みに受験勉強を乗り越えて某女子大へ入ったとたん、私の足下に延びていた人生のレールは突如その姿を曖昧にし始めた。
『さあ、勉強も遊びもお前の思うがまま。好きなようにこの先の人生を歩むがよい』
そんな声が、消えかけたレールの向こうから聞こえてくる気がした。
なにしろお金はなくとも時間は有り余っている大学生活。適当に描いてみた漫画をこれまた適当に投稿してみたら、なんと吃驚。名前が載ってしまったのである。
その「Bクラス」という肩書きに気をよくして、気づけばうっかり、はや五年。
十三回目の投稿作品と、今まさに格闘しているところである。
「おはよー、綾香」
私が入り口に置かれたタイムレコーダーにカードを通していると、後ろからハスキーな声がした。レコーダーの上には、『シロクマ宅配便 西三河サービスセンター』と書かれた、昭和の香りのするプレート。すっかり見慣れた、朝の風景だ。
「ああ、浩美。おはよう」
ジジッという音とともに、機械からカードが吐き出される。抜き取ると、入れ替わりに浩美が彼女のタイムカードを差し込んだ。整った爪に施されたネイルストーンがきらりと光る。今日も浩美の盛り髪は絶好調だ。
「来月のシフト希望、もう出した?」
「ううん、まだ」
そう答えはしたが、だいたいの希望はすでに組み立ててあった。十二月半ば〆切の月例賞が、私の目下のターゲットだ。できれば休みは十一月後半、つまり月例賞の〆切近くに集中させたい。
まだ技術もスピードもおぼつかない投稿者は、通常数カ月かけて一本の投稿作を完成させる。特にスピード勝負の作画作業に入ってからは、一日休みを取れるかどうかが作品の仕上がりを大きく左右する、と私は経験から学んでいた。もし仕上げ作業に費やす時間を二十四時間上乗せできれば、気が済むまでトーンを貼れる。ホワイトで効果を入れられる。つまり、完成度が格段に上がるのだ。
だが――ここで有休を申請するかどうかで、私は迷っていた。
初めのうちは〆切前ごとにまとまった有休を取っていたが、彼氏もいなければ旅行に行く気配もない私に、陰の首領(ドン)・橘女史が何やら怪しみ始めたのだ。前回有休申請したときなんか、ついに「久江田さん、お休みは何してるの?」と直接訊かれてしまった。
御年五十にさしかかる橘さんの猫なで声ほど、この職場で怖いものはない。うっかり話した秘密をセンター中に広められ、泣いた女子は数知れず。平穏を愛する私としては、ここで噂好きの嗅覚を刺激するのは、どうしたって避けたい。リスクは徹底的に避けるべし、だ。
「じゃさ、お願いがあるんだけど」いたずらを企む子どものような顔で、浩美は私に視線を寄こした。
「何?」
「実は、来月頭に旅行に行きたいんだよね。カレシがそこなら休み取れるらしくてさあ。綾香、前半と後半の休み代わってくれたりしない?」
「いいよ」
ぱんぱかぱーん! 私の心の中で、盛大なファンファーレが鳴り響いた。
「やりっ! さすが綾香様々、恩にきるわぁ」
浩美は私を抱きしめると、ばしばしと背中を叩いた。
なんのこれしき、むしろこちらこそ浩美様々だ。これで橘さんに怪しまれることなく休みが取れる。作業の遅れを挽回できるし、心置きなく作業にいそしめる。ああ、なんて素敵。私はうっとりと、脳内の進行表を書き換えた。
彼女――槙原浩美とは、このセンター内で一番仲がいい。同い年で、なおかつ二週間違いで勤務を始めたこともあって、気の置けない同期のような間柄だった。
もっとも外見だけ見れば、浩美と私が仲がいいというのは、なかなか信じがたいかもしれない。
彼女の盛り髪は「これから夜のご出勤ですか?」と尋ねてしまいそうなほどのボリュームだし、浅黒い肌にばさばさの睫毛。ぐるっと囲んだアイライン。どっからどうみても『ギャル系』というやつだ。修羅場明けでノーメイクでもバレないように(という言い訳半分で)普段からすっぴんに近い私には、朝の忙しいときによくそれだけセットできるものだ、と毎日感心してしまう。
初めて出勤した日の朝、浩美の姿を見た私は、思いっきり度肝を抜かれた。なにしろ初のオフィス勤務で、「これからは私もオフィスレディになるのね」なんて、期待に胸を膨らませていたのだ。OLのイメージとはかけ離れた浩美の格好に――彼女は当時からそうだったのだ――どこの繁華街に紛れ込んだのかと目を疑ってしまった。
しかし、部屋の隅で橘女史から研修を受けながら横目でスタッフの仕事ぶりを見ているうちに、私の凝り固まった認識は徐々に改められていった。これがコールセンターというものか、と肌で感じたと言ってもいい。オペレーターは、声がすべて。男性が鼻血を吹きそうなそのきわどい服装も、気合い百二十パーセントの顔面作りも、この仕事には何ら影響はしないのだ。
そう気がついた上でセンター内を見回すと、髪をひっつめたかっぽう着姿のおばちゃんが、エレガントな声色で電話対応していたりする。事実、受話器越しに聞く浩美の声は、今では高級デパートのエレベーターガールにも引けを取らないくらい、堂に入った心地よさだ。
少しでも疑ってごめんなさい。私は浩美を採用したどこかの面接官に、ひっそりと詫びた。
外見というフィルターを外して接すれば、浩美はさっぱりとして気立てがいい、申し分のない同僚だった。座席が指定されていないこのセンターで、どちらともなく隣同士の席を選ぶようになるのにそう時間はかからなかった。
今日も隣の席に着きながら、浩美が「シフトの話、センター長にはあたしから言っとくから」と小声で言った。
今日はいい一日になりそうだ。
私の仕事は、コールセンターのオペレーターだ。
電話を取って、しゃべって、切る。ただそれだけ。
言ってみればそれだけなのだが、世の中には本当にいろいろな人間がいるもんだ、と私はこの仕事に就いてイヤと言うほど思い知らされた。
プルルルル、プルルルル。
目の前のモニターに、着信のマークが点灯する。私は手元の端末で、受話ボタンを押した。かかってきた順番の早い人から、自動的にオペレーターに繋がる仕組みだ。
「はい、シロクマ印の宅配便。西三河サービスセンターです」
『あのー、集荷をお願いしたいんですけど……』
装着したインカム越しに、間延びした声が聞こえる。集荷と再配達は基礎の基礎だ。ほとんど条件反射的に、モニター上でマウスポインタを走らせる。
特別電話好きというわけでもない、というか月々の携帯代は軽く三千円を切るような私がなぜコールセンターで働いているのか。その理由は「残業ほぼゼロ」ということに尽きる。
完全なるシフト制が敷かれたこのセンターは、年中無休・三交代制だ。繁忙期にはアルバイトが増員されたりもするが、基本的には自分の好きなようにシフト希望を出せる。月あたりの出勤時間数を満たしさえすれば、帰り際に厄介な電話に捕まらない限り、突発的に残業が増えることはない。各自シフト表に従って出社し、時間がくれば退社する。それは二足のわらじを履く漫画家志望者にとっては、この上なく魅力的な勤務形態だった。
私が一件処理を終えたところで、隣の席の浩美が保留ボタンを押して立ち上がった。
「すいません岡本さん、大口の見積もり依頼が来てるんですけどぉ」
私の斜め前に座った男性社員が、手元の書類から視線を上げた。
「いいよ、代わって」
岡本さんはすばやくインカムをつけると、てきぱきと商談の段取りをつけ始めた。ごま塩のような白髪交じりの短髪は、今日もびしっと刈り上げられている。
常に冷静沈着に対応する岡本さんは、このセンター内きっての敏腕社員だ。私たちオペレーターは、お客や関係先と話がこじれるとまず岡本さんに相談する。センター長の出番となるのは、至極稀なケースだ。ガテン系のこの運送業界で渡り合っていくには、並大抵の胆力では務まらない。恐喝まがいの電話を淡々と処理する岡本さんを見ていると、心底そう思う。
一方、センター長はといえば、岡本さんのさらに奥、窓際の席でふんぞり返って今日発売の週刊誌を眺めていた。彼はこのコールセンターと、隣接する配送センター全体の責任者だ。相変わらずその黒々とした髪はぴっちりと撫でつけられ、てかてかと背後からの太陽光を反射している。そのでっぷりと栄養過剰な体格といい、太い金の指輪といい、どうにも全身「濃い」のであった。
遠目に週刊誌の見出しが見える。『運送業界の競争激化! 生き残るのはシロクマかカモメか』。そういえば、業界トップを争うカモメ宅配便が大胆な値下げを発表した、と先週テレビのニュースで聞いた。彼も一応センター長として、ライバル社の動向は気になるのだろうか?
一瞬そんな考えが浮かんだが、私はすぐさまそれを打ち消した。よりによって彼が、そんなことを気にするとは思えない。仕事にはまるで無関心なのだ。おおかた巻頭のグラビア目当てだろう、とそちらを一瞥すると、彼の鼻の下は見事にでれんと伸び切っていた。……見なきゃよかった。
席に戻ってきた浩美が、すばやく私に耳打ちした。「今のセンター長の顔、ありえなくね?」
彼女は見るもおぞましいものに遭遇したように、顔を歪めている。
自覚していなかっただけで、私も似たような表情をしていたらしい。顔を見合わせて吹き出しかけた二人を、橘女史がぎろりとねめつけた。
(第1章終わり)