今月のゆでかげん(受賞作家 競作エッセイ)

お題:夏への扉 黒瀬陽 2018年6月18日

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お題:夏への扉/黒瀬陽 2018年6月18日
膨張狂想曲


 愛犬のコロ助に鼻をなめられると、いつのころからか魚の腐ったような臭いがするようになった。いぜん関根勤さんの『ペットの王国 ワンだランド』という番組でやっていたが、犬の口臭が「魚の腐ったような臭い」がするのは、歯周病が原因らしい。
 ネットで〝歯周病〟を調べてみると、最悪の場合あごの骨が溶けてなくなり、体内に細菌が入って心臓や腎臓の病気になるという。ずいぶん物騒なことが書いてあるが、とはいえ犬の治療は保険がきかないので、そう易々と動物病院にいく気にもなれない。
 そんなことを考えていると、私あてに広島市から「節目年齢歯科健診」のハガキが来ていたのを思い出した。五百円で歯の健康診断が受けられるというもので、たしか三十歳のときも届いていたが、そのうち行こういこうと思いつつ、結局そのまま放置してしまった。期限はつぎの誕生日までであと数日に迫っていた。あわてて私はなじみの歯医者に予約の電話を入れた。
 歯医者は昔となにも変わっていなかった。〝なじみ〟といっても足を運ぶのは十年ぶりだった。先生に嫌みを言われつつ診察台にあがると、歯科衛生士さんがゴム手袋で口に器具を突っこんでくる。「右上の七番がC」とかぶつぶつ検査されたあと、説明を受けるため丸い手鏡をわたされた。鏡にはのどちんこが映っている。私はふと二十年前のことを思い出した。
 六月は衣替えの季節である。男子中学生というのは四六時中、股間をふくらませているものだが、とりわけ夏服は困ったものだった。学生服の厚手の裾でモッコリを隠せる冬とはちがい、といってワイシャツの裾を出していても教師に怒られる。堂々とモッコリをあらわにせねばならず、自然と前かがみの姿勢になるが、もっと最悪なのは体育の短パンだった。薄手の伸縮性のある生地のもと大きくなったら最後、誤魔化しようもなく、満天下におのがモッコリをさらすことになる。
 加えて肌着の問題もあった。中学生にもなると紳士肌着はダサイからと、制服のシャツの下にTシャツを着用するようになる。ヤンキーなどは赤や黄色の派手なTシャツを着て、制服のシャツから色が透けて見えるのをイキっていたが、あいにく私はヤンキーに憧れこそすれヤンキーではなかった。ほかにシャツの下は素肌という選択肢もある。見栄えはするが六月ではちと寒かった。
 教室の自分の席で襟からシャツのなかをのぞいてみる。乳首が立っていた。のみならず、思春期特有の女性化乳房症で私の乳房は少しふくらんでいた。午後になると肌は汗ばむ。シャツの襟は夏への扉だった。授業中のぞくとちょっぴりエッチな気分になった。ただ私とて自給自足に甘んじていたわけではない。
 衣替えの季節はまた女子から上着を剥ぎとり、ブラウス姿にする。小学校が一緒だった前の席のあの子の、ブラジャーのひもが後ろから透けて見えた。私の股間は大きくなっていた。授業が終わっても収まる気配はなく、私はしばらく席を立つことができなかった。
「黒瀬くん、ペコちゃんあげる」
 休み時間になっても一人じっと着席したまま、教科書に視線を落とす私に同情したのか、彼女は不二家のミルキーをくれた。小学校のころは呼び捨てだったのに、中学で同じクラスになると〝くん付け〟になっていた。「いや、違う。友達がいないんじゃなくて、あなたのブラひものせいで席が立てないのです」とは言えず、「……ありがとう」と受け取った。
 私はとんでもない不良かもしれない。女子からミルキーをもらってつぎの授業中に食べていたのだから。心のなかでイキっていると、たちまち苦い汁が口いっぱいに広がった。舌で触れると違和感があり、恐るおそる指を突っこめば、やはり銀歯が外れていた。
 学校帰りに歯医者に立ち寄った。予約していなかったのでずいぶん待たされる。診察室に通されても予約患者が優先なのか、先生はあまり相手にしてくれなかった。担当するのはもっぱら衛生士のお姉さんで、ゴム手袋で口をいじくりまわされた。頭にチラチラとおっぱいが当たる。
 言うまでもなく私の股間はふくらんでいた。が、水平な診察台のうえ隠しようもなかった。身をねじれば叱られる。下腹部に眼をやると、なだらかな山ができていた。衛生士さんは口のなかに夢中だったが、モッコリがバレやしないかと肝を冷やした。必死にきんさんぎんさんを思い浮かべるが、その間もおっぱいが頭をかすめ、静まるどころか噴火の狼煙をあげていた。
 ひと通り点検が終わると、私は手鏡をわたされた。いまから歯の状況を説明するという。鏡には自分ののどちんこが映っていた。私は急に恥じらいを覚える。名前が「のどちんこ」というだけで、これは断じて男性器ではない。たんに音が似ているだけで、まったくの別物。仮にも先っぽからオシッコが出たら、自給自足の飲尿生活の始まりである。
 思春期の私はプールの着替えのとき、前を隠すためのラップタオルを欠かさなかった。丸い手鏡に映る光景は、タオルのゴムを伸ばして上から素っ裸の下半身をのぞいているみたいだった。夏の扉の光景だった。お姉さんはじっくりのぞき込みながら、私にこと細かに解説をする。うがいのコップの水が溢れた。私が羞恥心で身をよじっていると、
「なんねえ、あんた銀歯はずれたんね。おっちょこちょいじゃのう」
 おっさんのドキツイ広島弁が聞こえてきた。腕毛ボーボーの先生だった。あっという間に下腹部のモッコリは関東平野のごとくまっ平らになっていた。
 二十年後に話をもどそう。健診の結果、五本の虫歯が見つかり、歯石の除去もすすめられた。歯石を放っておけば、歯周病になるらしい。来週、虫歯の治療の予約を入れると、「健診のお代はけっこうです」と返された。五百円の出費がなくなった。もうすぐ夏だ、ハーゲンダッツでも買って帰るとするか。


手鏡に映ったペコちゃん


著者プロフィール

近況:
私のデビュー作の見本をいただいた。魅力的なイラストには私の名前、レモンイエローのタイトルがまぶしい。帯にはキャッチーなコピーの数々と、ありがたい書店員さんのコメント。ああ、本当に本になったのだと感慨深い。いよいよ6月19日発売です!

黒瀬陽(くろせ・よう)
1982年、広島市生まれ。市内の小・中・高校を経て、早稲田大学人間科学部卒業後、東京大学大学院修士課程修了。2017年、『別れ際にじゃあのなんて、悲しいこと言うなや』(受賞時の『クルンテープマハナコーン(ry』を改題)で第20回ボイルドエッグズ新人賞を受賞。2018年6月、早川書房より刊行された同作品で作家デビュー。

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