今月のゆでかげん(受賞作家 競作エッセイ)

お題:96 尾﨑英子 2018年7月9日

来月のお題:宴のあと
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お題:96/尾﨑英子 2018年7月2日
身体は出口を感じてる?


 人生で一番音楽を聴いていたのは、予備校時代だろう。
 高校三年で南ドイツの田舎町から日本に帰国したものだから、カラオケに行ったりルーズソックスを履いたりミスドでフレンチクルーラーを食べたりするのに忙しく、とても受験生とは思えない生活をしていたので当然の浪人突入である。さすがにもう後がないわけで、呑気者でも勉学に勤しんだものだ。
 午前中に予備校の自習室に入り、授業があれば出席して、友達と学食で饂飩などを食しながら恋バナなぞしたら、また自習室に戻り、七時くらいに帰路につく。
 そんなサイクルの中で、自習室にいる間はほぼ、イヤホンを耳につけて音楽を聴きながら参考書に向かっていた。
 今なら何かを聴きながら本を読むことすらもできないが、当時は若さゆえ視聴覚の機能もフレキシブルだったのだろう、音楽を聴きつつ古代ローマ五賢帝だって暗記できたものだ。マルクス・アウレリス・アントニヌスとかアントニウス・ピウスとか、無音の状態でも頭に入らなくなったのは老化でしょうか。
 まあ、それはともかく、当時はiPodもiPhoneもない時代。CD全盛期。気に入った音楽をMDに録音し、MDプレイヤーで聴いていた。
 今の二十代はフロッピーを知らないというから、MDだって見たこともないのかも?
 MDが登場した時には、その小ささに感動したもので。しかもカセットテープより音質がよくて、CDみたいに曲ごとに頭出しできて便利! ってことで、もう最先端の若者はこぞってMDプレイヤーで聴いていたのですよ。
 わたしもTSUTAYAあたりで当時のヒット曲をレンタルし、それをMDに録音していた。
 さて、九十六年のヒットチャートを検索してみると、
 
 1位 名もなき詩(Mr.Children)
 2位 DEPATURES(globe)
 3位 La・La・La LOVE SONG(久保田利伸with NAOMI CAMBELL)
 4位 チェリー(スピッツ)
 5位 花―Memento-Mori(Mr.Children)
 6位 空も飛べるはず(スピッツ)
 7位 愛の言霊〜Spiritual Message(サザンオールスターズ)
 8位 I’m proud(華原朋美)
 9位 Don’t wanna cry(安室奈美恵)
 10位 Chase the Chance(安室奈美恵)
 
 ネットのある記事によると、こんな感じのラインナップ(英語の表記を打つのが面倒だった……)。
 十八歳のわたしはさぞかしミーハー女子だったのでしょう、自習室で聴いていたMDにはこの10曲がすべて入っていたはずだ。一巡で一時間ちょっとのMDを、一日五、六回は聴いていたので、二十年以上経った今でも、その頃の曲を耳にすれば、白い壁の机と椅子を引き詰められた部屋の中で過ごした、あの夏の空気感が蘇ってくる。
 
 その頃のヒットチャートの常連でもあったのが、安室ちゃんこと安室奈美恵さんである。
 多くの人がご存知のとおり、今年の九月に引退すると発表した。
 安室ちゃん(と呼ばせて)とは同い年である。
 アムラーと呼べるほどギャルではなかったものの、若かりし頃のわたしも大いに影響を受けた。
 髪の両サイドにシャギーやレイヤーを入れたし、バーバリーのチェックのミニスカートに黒のブーツを合わせましたよ。
 ずっと自分たちの先を走ってくれていた彼女が引退するというのだから、衝撃を受けないわけがない。
 寂しいし、やはりショックだ。
 でも、ずっと走り続けてきた彼女が決断したことを応援したいという想いもある。
 ドームツアーが開催されるというので、取るものとりあえずHulu会員の枠で応募した。事前にかなりの倍率であると予想されていたので、どうせ落選するだろうと踏んでいたのだが……。
 なんということでしょう、応募して数日後に、当選の連絡メールが届いたのだ。
 
 そんなわけで六月二日の土曜日、東京ドームに一人で行って参りました。
 その日は夫が出張で不在だったので、子供たちはご近所の仲良しママ友に託し、ごめん! 母は青春プレイバックしてくるし! とめっちゃテンション高く水道橋駅に降り立ったわけだ。
 小腹も減ったので、菓子パンでも買おうと東京ドームシティ内のコンビニに入ったら、とんでもない列がレジの前に伸びている。一瞬諦めようかと思ったが、腹が減っては集中できぬので、ここは並んでおくことにした。せっかく並ぶならと、ついでにトリスの缶ハイボールも一本。ライブ前にぐいっと飲んでさらに気分を高めたい。
 四つほどあるレジのすべての店員さんが外国人の方で、東京もインターナショナルだなぁ……などというありきたりな感慨にふけっているうちに順番が来て、無事に買い物を済ませた。
 まだ開演の十八時まで四十分ほど時間があったが、とりあえず中に入ることにする。
 ここでも長い列ができており、厳重なセキュリティーチェックもあって、ドームの中に入るのに十分ほどかかった。
 入る際に、先ほど買った缶のハイボールをチェックされる。
「中に紙コップを用意していますので、そちらに入れ替えて飲んでください」
「缶のままじゃいけないんですか」
「申し訳ありませんが、必ず移し変えてください」
 ああ、そうなのね。
 わかりました、と言って、わたしは奥へと進んだ。
 座席は三塁側のスタンドである。
 席に向かう前に、トイレに行っておこうとしたら、ここでは、コンビニの比ではない長蛇の列ができていた。
 この順番を待っているうちにライブが始まってしまいそうなほどである。水道橋の駅でトイレを済ませておかなかったことが非常に悔やまれた。待ちに待ったライブだから、ここはすっきりとした気分で満喫したくて、またしても並ぶはめになる。
 十八時になっても、まだまだトイレの入り口までの距離があった。しかしここで脱落組や他のトイレに向かう人々が多発、一気にトイレの列が縮まり、なんとか十八時十分頃に席につくことができた。
 ここでようやく買った菓子パンが食べられる。
 が、そうだった。缶のハイボールは紙コップに移し替えるように言われていたのに。
 なんてこった……とまたしても後悔しつつ、とりあえず腹ごしらえをする。
 音楽が鳴り出すと、もうすぐはじまる合図。ハイボールがなくても気分はどんどん上がっていった。
 十八時二十分ごろに暗転。
『Hero』のイントロがはじまると、ドーム内に割れんばかりの歓声が鳴り響いた。
 三塁側のスタンドから見た安室ちゃんは、想像以上に遠かった。
 持ってきたオペラグラスでのぞいても、あまりに小さい。
 にもかかわらず、華奢な体を全力で動かして走って踊る姿から、東京ドームすべてを埋め尽くすようなエネルギーを発散していて、圧倒された。
 これまで彼女が積み上げてきたこと、培ってきたこと、築き上げてきたこと。安室奈美恵という歴史、すべてを、惜しみなく出し尽くそうという強い意志がびしびしと伝わってきた。
 あの場にいる全員に愛を捧げようと、本気で思っている。
 また、それができてしまうからこそ、彼女はレジェンド級のスターなのだ。
 いや、小難しいこと抜きにして、とにかくすごい。
 同い年の女性が、高いピンヒールを履いてノンストップで歌って踊り続けていること……その執念のようなものに胸を打たれた。
 わたしなんて新宿駅の階段を上がるだけでも疲れるわけですよ。自分のような凡人でさらに怠惰な人間と比べることが間違っているとわかりながらも、感動する。痺れてしまう。
 ドームの中にいる人たち、さらにドームの外で音漏れを聴こうと集まっている人たち……彼女のファンみんなが痺れているということにもまた痺れる。
 右隣の女子二人組ははじまった瞬間から泣きっぱなしだ。左隣のカップルの女性は、彼氏が話しかけるのをほとんど無視し、足でステップを踏みながらもずっとオペラグラスを覗き続けている。同じ空間にいる安室ちゃんを一秒でも見逃すまいとするように。
 ライブは、どんどん熱を帯びていき……、
 そこで、『Body Feels EXIT』である。
 
 ここまでどんな道を歩いてあなたにやっと辿り着いたかを……
 
 その歌詞は、まさにわたし自身の気持ちだった。
 あなたにやっと辿り着いたよ、安室ちゃん……。
 まだ全然遠いけどね! ここまで来た!
 リアルタイムでこの曲を聴いていた日々が一気に蘇り、全身に鳥肌が立った。
 気がつけばポロポロと涙が溢れ出て、一度流れ出した熱いものはとめどなく流れこぼれた。
 こんなノリノリのアップテンポな曲で顔がぐしゃぐしゃになるほど泣くことになるとは、十八歳のわたしに想像できたでしょうか。
 恋心を歌ったせつないバラードで泣くより、ワンランク複雑な涙のシステムだ。
 正直、泣けるような歌詞ではない。もちろん、いい曲ですよ! 大好きですよ!
 でも、ちょっと意味がわからないでしょう。
 Body Feels EXITって? 身体は出口を感じてる?
 想像力を駆使すると、言いたいことがわからないでもない。体の内部にたまったエネルギーが出口みたいなものを見つけた、的な?
 でも、そんなことはどうでもいい。
 けっきょくのところ、歌詞の意味なんてどうだっていいのだと、自分の涙が証明してくれた。
 十代の自分はこの曲を単純に好きになり、二十年以上の時を経て、今はあの頃とはまったく違う感慨で号泣するほどに感動している。
 その日の安室ちゃんはノンストップで三時間ほど歌って踊り続けて、最後に「ありがとう!」と叫んでくれた。
 その感動の余韻に浸りたかったが、友人に子供を預けている身としては、一刻も早く帰宅せねばならず、わたしは駅に向かう人々の波を縫うようにしてダッシュした。
 ずっと立ちっぱなしだったにもかかわらず、驚くほど体が軽くて、背中に羽が生えたみたいに、どこまでも走っていけそうだった。
 やっぱり大きなパワーをもらったんだ。
 こちらこそありがとう!
 また胸にこみ上げるものを感じつつ、そうだ、と思う。
 今、全身に巡る熱いものこそBody Feels EXIT! 
 そう心の中で叫びながら、家に帰ったらカバンの中で温くなっている缶のハイボールで一人乾杯しよう、と夜の水道橋を駆け抜けたのでした。


著者プロフィール

近況:
非常時用に買っておいた木炭をなぜか庭に放置してしまい、雨ですぶ濡れに。乾かせば使えるものなのでしょうか……?

尾﨑英子(おざき・えいこ)
1978年生まれ。大阪府出身。早稲田大学教育学部国語国文科卒。フリーライター。東京都在住。『小さいおじさん』で第15回ボイルドエッグズ新人賞を受賞。同作は6社による競争入札の結果、文藝春秋が落札、2013年10月同社より刊行され、大評判となった。「小説すばる」7月号に短篇「シトラスの森」掲載。「森へゆく径」にエッセイ「いつも心にファン気分を」を寄稿。2017年1月、『小さいおじさん』を改題し、『私たちの願いは、いつも。』として、角川文庫より刊行。「幽」vol.27(KADOKAWA)にエッセイ「ガラシャ夫人の肖像」を寄稿。本年5月 、長編第2作『くらげホテル』を KADOKAWAより刊行。


Back Number 2017

7月のお題:96
時に、西暦一九九六年………………黒瀬陽
身体は出口を感じてる?…………尾﨑英子

6月のお題:夏への扉
イマジナリーフレンドと『くらげホテル』
       ……………………尾﨑英子

はじめましたって言われるアレ
       …………………小嶋陽太郎

膨張狂想曲……………………………黒瀬陽
割り箸の上の鳥……………………園山創介

5月のお題:トラベル・ミステリー
愛と幻想のタイムトラベル…………黒瀬陽
うつろな温泉………………………園山創介
あずさにて………………………小嶋陽太郎

4月のお題:櫻の樹の下に
黒瀬陽の東方見聞録…………………黒瀬陽
愛でたい春…………………………尾﨑英子
らんまん娘と薬味…………………園山創介
秘密の活動………………………小嶋陽太郎

3月のお題:卒業
同級生だもの………………………尾﨑英子
my graduation………………………黒瀬陽
Taiko Super Kicks のちヨシキ
       ……………………小嶋陽太郎
 
はじまり旅行………………………園山創介

2月のお題:聖バレンタインの惨劇
さよなら平成…………………………黒瀬陽
猟奇的な彼女……………………小嶋陽太郎

1月のお題:無題
お犬様と年男…………………………黒瀬陽
2018年宣言…………………小嶋陽太郎

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