第16回ボイルドエッグズ新人賞発表!
2014年1月27日

第16回ボイルドエッグズ新人賞受賞

気障でけっこうです
小嶋陽太郎

(エントリーNo.27)

作品内容:
どうにもこうにもいきづまるということは、人間三十年以上生きていればいずれはどこかであるものでして、まあそれが今なんですけれども――雨の中、気鬱を紛らわすために散歩に出た私は、寂れ果てた公園で、首から下が穴に埋まったおじさんに出会う。おじさんはこの世に絶望しているふうだった。穴から出してやろうと思い、私はシャベルをとりに自宅に戻るのだが……高校二年生、斉藤きよ子の不思議で切ない波瀾に富んだ春夏の日々を、古風と今風を巧みに織り合わせた文体で描く、類例のない面白さのデビュー作。

著者紹介:小嶋陽太郎(こじま・ようたろう)
1991年、長野県松本市生まれ。22歳。信州大学人文学部在学中。

⇒受賞の言葉/小嶋陽太郎

選考過程
1 第16回ボイルドエッグズ新人賞には、総数67作品のエントリーがありました。⇒第16回エントリー作品
2 慎重な検討の結果、最終的に、小嶋陽太郎『気障でけっこうです』が受賞となりました。受賞作は改稿の上、大手出版社7社が参加する競争入札にかけられます。入札結果は3月下旬に発表の予定です。

第16回ボイルドエッグズ新人賞講評   村上達朗

 今回の受賞作、小嶋陽太郎氏『気障でけっこうです』には驚かされました。意識的に古風と今風を織り合わせた、ユーモアを感じさせる文体が非常によく、物語もいきなり、
 
 どうにもこうにもいきづまるということは、人間三十年以上生きていればいずれはどこかであるものでして、まあそれが今なんですけれども、それで、前にも後ろにも、また右にも左にも、はては上にも下に向かっても一寸たりとも動けぬという悲惨な事態になっております。
 
 という独白で始まります。ぼくはこういうなんだかよくわからない、人をくった書き出しが好きな質なのですが、じきに、これは独白でなく、主人公である「私」に語りかけている人物のせりふだということが判明します。この人物はどうやらこの世に絶望しているらしく、そのわけも次第に明らかになってきます。主人公の「私」は日常生活に退屈しており(新学期が始まったばかりとあるので、学生、それも高校生のようだ)、気鬱を紛らわせるために雨の中散歩に出て、寂れた公園の地面に空いた穴に見ず知らずのおじさんがすぽんと収まっているシュールな光景を目にするのです。この主人公の「私」というのがまた、変に年寄りくさい男子で(調子がどこか内田百閒を思わせる)、しばらくはよくある「鼻持ちならない自意識過剰男子の一人称もの」かと思いつつ読み進むと、あるところに、この自意識過剰の年寄りくさい高校生が実は女子だったとわかる一文がさりげなく置かれていて、読者は一杯くわされたことに気づきます。ぼくはここで、やられました(笑)。このあと、主人公たる女子高生は、穴に埋まったおじさんを救出すべく、自宅にシャベルを取りに戻るのですが……残念ながら、ここから先のストーリーは割愛せざるを得ません。なんともシュールな書き出しに畳み掛けるかのように、物語は意想外な展開を見せるからです。
 
 物語の先を、ぼくは祈るような気持ちで読みました。この手の話は竜頭蛇尾に終わり、(ここでは明かせない)おじさんの設定などもよほど慎重にやらないと失敗することが多いからです。が、結果は、話の運びにほつれもなく、どころか読み手の予測を次々と覆しながら、タイトロープをみごと渡り切っていたのです。話も設定も人物も、細部に渡り考え抜かれた小説であったことがわかりました。主人公とあとから出てくる(ややぶっ飛んだ)親友の女子キャラも、「そうそう、学年に一人くらい、必ずこういう生徒がいる」と首肯させる説得力と魅力に富んでいます。弱冠22歳の若者がどこでどうやってこの文章力、発想力、観察眼を獲得したのか判然としませんが、次代の才能がいまここに出現したとの思いが強くこみ上げてきました(本物の才能とはこうしたものなのかもしれません)。将来を考えたときに、作風が既成作家に似ていそうで似ていないところも、頼もしく思いました。本作が第16回の受賞作となった所以です。
 
 なお、本原稿は一カ月程度の改稿期間を経て、2月下旬に7社による競争入札にかける予定です。結果はあらためて告知します。どうかお楽しみに!
 
 ほかに、いくつか気になった作品がありましたので、応募者の今後の参考のために、短く講評します。
 
 重松英明氏『U-17 〜マリアたちのいた時代』は、作者と思わせる人物の子供時代から青春時代にかけての連作形式の懐古譚です。余計な枝葉を削ぎ落とした簡潔な文章で、最初から最後まで安心して読めました。小、中、高、それぞれのエピソードを通して昭和という時代の雰囲気が色濃く滲み出してきます。その筆力はなかなかのものだと思いましたが、感傷的に過ぎるのが難点でした。今度の直木賞受賞作、姫野カオルコの『昭和の犬』を挙げるまでもなく、昭和という過ぎ去った時代を描く小説はあまたあり、たとえそれが自伝的な小説であっても(むしろ、だからこそ)、いちばんやっていけないことは、センチメンタルになることです。描くなら、感傷を排した文体と会話を徹底させねばなりません。感傷は、作者でなく、読者の心に植え付けるものだからです。もうひとつ、「新人は100%の小説を書いても、デビューはできない。100%の小説は書店にあふれかえっているのだから。新人がデビューするには120%の小説を書かねばならない」これは、新人賞の入札に参加している某出版社某編集長の口癖なのですが、この観点から本作を見るに、作品の出来は80から90%の域ではないかと思います。作家志望者の場合、文章がよく、内容もそれなりに読ませるものであっても、120%に達しなければデビューはできないものなのだということを、肝に命じていただければと思います。厳しいようですが、それが現実と受け止め、書くなら(応募するなら)、歯を食いしばってでも、120%の作品を。
 
 以上のことは、本山さつか氏『青空BEST』にも言えることだと思いました。バブル期にできたある大型団地を舞台に、80年代にそこで育った子供たちの過去と現在を描いた400字原稿用紙にして500枚近い力作です。正確な文章で時代のエピソードが細かく描写されています。小説としては、登場人物たちにいまひとつ魅力がないことが難点ですが、ぼくが思うに最大の問題は、この作品の構造がスティーヴン・キングの作品、特に『スタンド・バイ・ミー』と『IT』に似すぎているのではないかということです。新人の場合、既成作家と比較されてしまうのは避けられず、であればこそ、既成作家とは違う何かを、違うテイストを模索しなければなりません。キングと比較したときに、先の言葉を使えば、「キングが100としたら、120の作品」にしなければ、デビューはむずかしい、もっと独自の物語をということになります。なお、87年時の中学生が「バブル」という言葉を使い、88年には「きしょい」が出てくるのですが、この当時、これらの言葉はまだ使われていなかったと思います。「バブル」はバブル景気が崩壊したあとに新聞が用語を募集し、そのなかから選ばれて定着した言葉なので、現実にも小説上も、渦中にあった中学生が使える言葉ではなかったのではないでしょうか。キングの日本版を目指すのはよし、ですが、キングの上を行くためには、こうした時代の単語、用語を正確にトレースできるよう心がけてほしいと思います。
 
 木村玉餌氏『モヒカンと宇宙人はサライの空を見るか』も、文章力では100に近いレベルに達していそうです。アルバイトをしながらプロのミュージシャンを目指している20代の若者が、宇宙人を自称する人物に会って、共同生活を始めるという、ここだけをとればトンデモ話なのですが(笑)、日常生活を淡々と綴る筆致や、東京にある東小金井という狭い空間を舞台にしているところに面白みがあります。小説としての問題は、登場人物たちに真の葛藤がないことです。目の前に宇宙人(と称する者)が現れて、実際に目の前で飛んでみせたりしても、ほとんどなんの疑問も恐れも抱かず、相手をすんなり受け入れてしまう。小説は現実をなぞるものではないとはいえ、人間の心理として不自然ではないでしょうか。仮に本物の宇宙人だとしたら、世界的話題となること必定で、主人公はお金のないバイト青年なのですから、ネタとしてマスコミに売り込むだけで大儲けできるかもしれません。少なくとも、そこにはいろんな葛藤があってしかるべきではないか。そうしたリアルな反応を描かず、「いつでも、なにがあっても、みんな仲良し」的な描き方では、小説に説得力がなくなるということをわかっていただきたいと思います。葛藤を小説に持ち込むことができれば、まちがいなく人物は生き生きしたものになるでしょう。登場人物たちをぬるま湯につけず、熱い湯に放り込んでやってください。
 
 サルが人間の恋の手助けをするという京都が舞台の小説、高津利彦氏『101匹目の芋を洗うサル』にも同様の問題があったことを指摘しておきます。片思いの恋に身を焦がす主人公の前に、突然サルが現れ、しゃべり出すのですが、それに対する主人公の反応が、ぼくには理解できないのです。サルが人間の言葉をしゃべったら、ふつうなら、びっくりしたり、悲鳴を上げたり、怪しんだり、恐れ戦いたりすると思うのですが、主人公の女性は昔からの知り合いみたいにサルの言葉に静かに耳を傾けます。動物がしゃべるという設定は森見登美彦や万城目学を下敷きにしているのかもしれませんが、奇想を生かし、読者にそれを違和感なく受け入れてもらうためには、まずは土台となる人間心理に不自然さが生じないような工夫が必要なのです。そこをなおざりにすると、読者を物語世界に没入させにくくしてしまいます。そのあたりの小説技法は彼らの諸作を熟読して学んでいただくこととして、この作品に関してもうひとつ大事なことは、「京都を舞台に恋のからんだ不思議な話を書く」のは、新人および作家志望者にはハードルが高すぎるので、やめておくべきだということです。京都はすでに森見登美彦や万城目学らによって描き尽くされており、新人および作家志望者が京都を舞台に新たな作品を書ける余地はほとんど残されていないからです。できうることなら、そんな難しい場所でなく、なるべく先輩諸氏と比較されにくい場所を見つけて、高みを目指してほしいと思います。
 
 野々上いり子氏『弾丸総務』は、女子大学の総務課を題材にした物語で、この場所は小説として目新しく映りました。「大学の総務課」というだけで、いろいろな物語が脳裏にわき上がってくるようです。しかし、今回は読んでいて、残念ながらいくつか疑問がありました。まず『弾丸総務』というからには、元気のいい女性職員、中園祥子を中心に据えた物語なのだろうと思いました。ところが、どうやらそうでなく、主人公は伸という男性職員なのです。「弾丸」とは総務の仕事自体を指すのだとしたら、やはりそれには無理があるし、総務の仕事をそんなかっこいい位置づけにせず、あくまで中園祥子というキャラを中心にした、彼女がいろいろな意味で躍動する物語にすべきだったのではないでしょうか。伸という主人公も、過去や家族に問題を抱えていることがわかってきて、話が昔の事件のしがらみのほうに移って行く構成も感心しませんでした。せっかく「大学の総務課」という魅力的な題材があるのに、そこから離れてしまう展開、題材の魅力を薄めてしまう物語構成ではないかと思います。伸の「おれ」というしゃべり方にも違和感が、ぼくにはありました。現実の大学総務課にそういう話し方をする職員がいてもいいとは思いますが、この小説においては、総務課の主任は「おれ」でなく、「ぼく」ではないか。「おれ」で通すためには、主人公に別の背景を用意してやる必要があったのではないでしょうか。今回は、せっかくの題材を手中にしながら、時間がなかったか、人物と物語の設定を見誤ったように思えてなりませんでした。この題材なら、当然青春小説になるし、事件が起こればあっという間にミステリにもなります。むろん恋愛がらみの話でもよいでしょう。社会性も盛り込めそうです。いかようにも作れるはずですが、いずれにせよ「大学総務課」から離れずに、そこを通して見えてくる世界を描いてほしいと思いました。勝手な願望ですが、今後の執筆の参考になればと書き添えます。
 
 今回の講評は以上です。次回新人賞は近く募集を開始します。いましばらくお待ちください。



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