第20回ボイルドエッグズ新人賞発表
2017年2月1日

第20回ボイルドエッグズ新人賞
クルンテープマハナコーン(ry
黒瀬 陽

(エントリーNo.44)


作品内容:
一九九六年、ぼくは中学二年の十四歳で、鏡に映る自分のオッパイとにらめっこしていた――クラスで人気のヤンキーグループに入り、スケボーや煙草を覚え、女子からも告られたが、デートは失敗につぐ失敗。あえなくトップグループからクラス最下層に転落した。そこには、知ったかぶりだが勉強はできない〝つまり〟や、オッパイの悩みをあっというまに解決してくれた優等生の祐介、そしてタイ人の男子がいた。ぼくらは東京でブームになっているらしい「エヴァ」の話題で盛り上がり、同級生のお姉さんに憧れ、夏休みにはゲーセンやカラオケ、自転車爆弾で遊ぶが……。一九九〇年代半ば、原爆ドームのある街で笑い悩んだ中学生たちの日常を鮮烈な一人称文体で描く、広島版スタンドバイミー。

著者紹介/黒瀬 陽(くろせ・よう):
1982年、広島県生まれ。34歳。早稲田大学人間科学部卒業。東京大学大学院修士課程修了後、会社員。日商簿記2級。電子会計実務検定2級。法人税法能力検定1級。運転免許なし。現在、新たな資格の取得に勤しみつつ、執筆に精進する日々。

☞ 受賞の言葉/黒瀬 陽


選考過程:
1 第20回ボイルドエッグズ新人賞には、総数53作品のエントリーがありました。☞ 第20回ボイルドエッグズ新人賞エントリー作品
2 慎重な検討の結果、最終的に、黒瀬陽『クルンテープマハナコーン(ry』が受賞となりました。受賞作は改稿の上、大手出版社10社が参加する競争入札にかけられます。入札時期は3月〜4月の予定です。


第20回ボイルドエッグズ新人賞講評/村上達朗

 まずは黒瀬陽氏『クルンテープマハナコーン(ry』の受賞を喜びたいと思います。黒瀬さん、第20回ボイルドエッグズ新人賞受賞、おめでとうございます。と書いておいてなんですが(笑)、このタイトルの意味、あなたにはわかりますか? ぼくにはさっぱりでしたが、その意味不明のところと、お尻につく「(ry」がなにやらいまの時代のセンスを感じさせ、読む前から期待が高まりました。物語は、
 
 一九九六年、ぼくは中学二年の十四歳で、当時、鏡に映る自分のオッパイとにらめっこするのを日課としていました。
 
 という一文で始まります。自分のオッパイとにらめっこ? ぼくは一気に物語に惹き込まれていきました。ときおりユーモアの粉をまぶした「ですます」調の文体に乗せられて読んでいると、いつのまにか、1990年代中頃の時代の光景がありありと脳裏によみがえってきます。この物語は、1990年代に中学生だった作者の、広島市を舞台とした青春グラフィティ、いわば広島版スタンドバイミーだったのです。時代はちょうどインターネットの黒船が日本に上陸し、ウィンドウズ95が発売されたころ。前年には阪神淡路大震災があり、オウム真理教の事件が世の中に暗い影を落としていました。作中の主人公は、遠く離れた東京で一大ブームを巻き起こしている『エヴァ』を気にしつつも、スクールカーストのジェットコースターに揺すられ、日々右往左往しています。
 方言を多用する小説は、読みにくい、意味がとりにくいという理由で、新人のうちはやるべきではないというのが、ぼくの信念ですが、この小説にかぎっては、主人公たちの交わす広島弁がなんとも魅力的で、特に女の子たちの話す言葉はあまりにキュート、すっかりやられてしまいました(笑)。少し荒っぽいおじさんくさい言葉づかいと女子中学生というギャップに、魅力があるのかもしれません。作者はそうした時代の空気と人物たちの話し言葉を等身大の語り口でじつに生き生きとすくいとってみせるのです。
 タイトルの意味は話半ばでわかってきますが、ミステリでなくても意味を知らずに読んでいくほうが面白味があるので、ここではあえてふれないでおきましょう。ついこのあいだのことなのに、中学生の手にはケータイもスマートフォンもなく、家に(家電に!)女の子から電話がかかってきて、母親に盗み聞きされるという懐かしい時代。大人になるにはまだ少し時間のある少年少女たちの細やかな日常には、いまは失われたかもしれない好ましいドラマが残されていたようです。
 読んでいて、この物語はここで終わりではない、もう少し先を読ませてほしいとの感想を持ちましたので、そのあたりを中心に加筆、改稿をお願いして、3月〜4月ごろ、完成稿として出版社の競争入札にかけます。結果はあらためて告知します。どうぞお楽しみに!
 
 ほかに、二、三、気になった作品について、短く講評します。
 
 十四歳といえば、加藤宗士氏『バウンドレス・デザート』は登場人物でなく実作者が十四歳(史上最年少の応募者かもしれません)の作品です。文章はまだ荒削り、日本語表現の間違いも散見されるのですが、せりふまわしや地の文に独特のとぼけた味わいがありました。物語も、会社員のぼくが昼休みにひそかにオナラをもらしたことで、なぜか自分だけ自分の体が見えなくなり、日常が崩れていくという、安部公房を思わせる不条理世界の話。地上の諸問題を議論する政策決定会議にヒデヨシとイエスが同席するなどという突飛な設定も楽しく、読み飽きない面白さがあるのですが、読者は主人公とともに夢の世界もしくは観念的世界に放り込まれたままで、最後まで作者の自己満足に付き合わされている感が拭えないのが残念でした。それでも、ボイルドエッグズが待望する「類例のない面白さ」の片鱗を感じさせてくれる才能であることは間違いないと思います。持ち味を大事にして、焦らず書き続け、ぜひまたボイルドエッグズ新人賞に応募してほしいと願います。
 
 三好崇之氏『太陽の苦節』はタイトルが秀逸でした。石原慎太郎『太陽の季節』のもじりであること自体に、いまの時代の若者像に挑もうとする気概を感じました。前回の講評で、同氏『復讐するはマレにあり』を取り上げ、そこでは「等身大の文体で新しい大学生小説を」と述べたわけですが、今回の作品はその返答と受け止めて読みました。しかし、読み始めてすぐ、主人公が童貞であるというモチーフはお飾りのように感じられ、書き出しはともかくとして、この主人公の童貞属性には終始、疑問符がつきまといました。童貞返上のため入部するプロレス研究会も、それ自体わるいとは思わないのですが、登場人物たちに(所詮は大学生のママゴトじゃない? との読者からのツッコミを突き返せるだけの)真の葛藤がなく、またある理由で活動停止になった部を復活させるための主人公の策略などは、変に大人社会の真似事のようにも見えました。主人公自身、本人が言うほど「苦節」のなかにあるとはどうしても思えないのです。このタイトルからすれば、もっと別な物語になってしかるべきだし、反対にプロレス研究会にまつわるエピソードを活かすなら、主人公が童貞である必要はなく、タイトルも別のものにすべきだったでしょう。今回は、作品そのものをもっと時間をかけて熟成させてほしかったと残念に思いました。
 
 松島ケンサク氏『鼻』は、東京湾上空にいきなり巨大な鼻が出現するという奇想小説です。「鼻」は、なんと横浜の大学生である「ぼくの鼻」であったことが早々に明らかになり、やがては巨大な「耳」や「目」まで現れます。このシュールな発想は面白く、どう展開するのかとわくわくしながら読みました。が、この作品もどこかにボタンの掛け違いがあると感じました。「鼻」が石膏像のような物質でなく、生きている人間の鼻そのものなので、読者は「え? 顔との接地面とか鼻の穴はどうなってる?」などの疑問を抱いてしまうのですが、その答えがなかなか出てこず(中盤あたりにようやく説明がありますが)、イメージを明確に脳裏に浮かべることができないのです。異形のものに小説的リアリティを与えるためには、まずは想定されるあらゆる疑問をつぶすことが不可欠なのですが、ぼくが読むかぎり、その土台はややおろそかになっているように思えました。
 もうひとつの大きな疑問は、なぜこれが「ぼく」の鼻であって、ほかの人間の鼻ではないのか、です。この答えも終盤明らかにはなりますが、これも残念ながら、ぼくにはなるほどと思える答えではありませんでした。肥大化した自意識をもつ人間は世の中に腐るほどいるはずだからです。また、巨大な鼻の出現に対する諸外国の反応などについての言及もありません。話を頭で作っているか(失礼!)、土台となる設定が固まらないまま物語を動かしてしまった感が否めないのです。
 ここが小説のむずかしいところかもしれません。巨大な鼻を出現させるなら、むしろ「ぼく」とも誰とも無関係で、ただそこにあり、なぜ出現したのか人間にはわからない現象にしたほうが物語に奥行きが出たのではないか。世界中の話題になり、いっときは観光客も押し寄せたりするのだが、ただそこにあるだけなので、一年もすると飽きられて、一観光名所にすぎなくなるという前提で、ある日、大学生の主人公の身のまわりに不思議な事件が起こり始める……どんな事件かはよく考えるとして、物語の構造をこのようなものにしてみたらどうか。設定は大風呂敷でもよいのですが、それを盛りつける容器はなるべく小さなものにする(登場人物たちの営みから生まれる物語に焦点を当てる)というのが、小説というジャンルをうまく機能させるコツだとぼくは思うのです。
 
 第20回の講評は以上です。次回新人賞は近く募集告知を始めます。いましばらくお待ちください。

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