第5回ボイルドエッグズ新人賞発表!(06.5.01)

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第5回ボイルドエッグズ新人賞

該当作なし

選考過程
1 第5回ボイルドエッグズ新人賞には、総数25作品のエントリーがありました。
2 各選考委員は、作品すべてに目を通し、それぞれ評価リストを作成しました。
3 その評価リストをもとに、4月下旬、選考会を催しました。
4 選考会では、新人賞の最終候補作として、時里キサト『つぶれていたので顔が無い』、高橋祐一『太陽は燃えさかる石である』、福島幸治『090から物語』、俊多『三階建ての魔女』、小石田英『無双軍神ゲキシンオー』、宮本恵里『Dのトライバル』の6作品を選び、検討しました。
5 慎重な討議の結果、今回は該当作なしとなりました。

選考委員講評(到着順)

三浦しをん

 最終選考に残った作品のなかでは、私は『太陽は燃えさかる石である』に一番いい評価を、『Dのトライバル』に次点をつけました。しかし、「受賞を」と推すことはしませんでした。物語の力が、やや欠けているように思えたからです。
『太陽は燃えさかる石である』は、文章も読みやすくおもしろかったし、キャラもいい味を出していたのですが、いくらなんでも話の展開がなさすぎではないかと思います。
 学生モラトリアム物、オタク物は、作品として世の中に多々あります。この新人賞に送られてくる作品も、大半がそういう題材と言ってもいいのではないでしょうか。そのなかで、なおもモラトリアム、オタクを題材にするならば、ストーリーになんらかの新機軸が絶対に必要です。文章を書く力はあるかただと思うので、もうちょっと戦略を練らないともったいないです。もう一歩踏みこんだ題材選び、ストーリー展開を期待します。
『Dのトライバル』は、「書かずにはいられない」という熱気が文章からムンムンと感じられ、どういう展開になるのか読み進めずにはいられない吸引力がありました。しかし、特に後半の多重人格が明らかになってくるあたりから、話が非常にわかりにくいです。だれがだれなのか、なにがどうなったのか、一生懸命に読み返したのですが、いまも十全に理解できた自信がありません。作者の頭のなかの情景やストーリー展開が、描写を通して自然に読者に伝わるように、工夫してみてください。
  ※
 読者はお金を払って、払わずに図書館で借りたとしても、数時間を費やして、本を読むわけです。書き手は、「どうしたらひとに読んでもらえるか」を考えて、作品を書く必要があります。これは、読者に媚びろという意味ではなく、書きあがった時点で、書き手もまた、その作品の読者である、という意味です。自分が書きたいと思ったことが、読み手にまわった自分にもきちんと伝わってくるかどうかを、常に読者の立場と視点で確認しなければなりません。
 どんな作品も、「隅から隅まで完璧に新しい」ということはありえないでしょう。文字を使って言語表現している時点で、「完璧にオリジナル」であることは不可能だとも言えます。ではそのなかで、どうやって「この作者にしか書けない世界だ」と読者に思ってもらうか。作品ごとにたゆまず工夫と克己をつづけるのが、小説を書くという作業の根幹だと思います。
 その重要な第一歩が、題材選びです。自分が書きたいことにふさわしい舞台、キャラクター、文章、ストーリー展開はどういうものなのか。学園物、オタク物、いじめ、巨大ロボット、猫耳。これらの題材やアイテムは、そう多くはない応募作のなかですら、これまでに何度も何度も目にしました。ストーリーにさしたる新味もないままに、あえてこれらの題材を選ぶのは、非常に不利だと思います。
 いきなり私事で恐縮ですが、たとえば私はBL物を、たぶん日本でもかなり上位に入るぐらい読んでるほうだと思います。しかし実作者としてその土俵に参戦する自信はあまりありません。ものすごく多様で深い物語世界が、すでに作品としてたくさん結実しているので、そこにどうやって新しい切り口、視点を持ちこみ、さらには読んでおもしろい「物語」にすればいいのか、うまい方法が見つけられないからです。
 先行作品をちょっとかじって、「これなら私にも書けそう」と思った程度では、学園物(中略)猫耳などの題材を、新鮮味のある物語として成り立たせることは到底できません(先行作品があまりにも広範囲かつ深い部分まで、すでに書いてしまっているため)。学園物なら学園物の、あらゆる先行作品を熟読玩味しつくしたうえで、「私ならこうずらす」と発想することが肝心ではないでしょうか。
「書く」こと、そしてそれを「商売として成り立たせる」ことは、難しいです。しかし、だからこそ追求しがいもあり、まだだれも気づいていない自由な平原も広がっているはずなのです。
 次回に心から期待しています。

千木良悠子

パソコンを買いました

 本日私は新しいパソコンを実に5年ぶりくらいに買ってしまいました。ヤッタヤッタ!
 思えば、初めて小説を書いたのは、大学生になったばかりの頃。初めて手に入れたパソコンのワープロソフトを起動して、思いつくままに文をしたためてみたのです……別に誰に見せるつもりもありませんでしたが「友達に読ませたらウケるかも」という程度の、多少のすけべ心はあった気がします。それが処女作となったわけですが、いや、まるで昨日のことのようです! いつまで経っても、気分は常に、処女! 小説なんか、自分で書いたことがあるようには、とても思えません! だから応募作を読むと、まず始めに湧き出るのは、「これだけの文章を書くのは大変なことだろう……」という著者たちへの畏敬の念。どんなつまらない作品も、人間たちの残した偉大な足跡だという気がします。またはでかいウンコのようにも見える。ウンコ(&足跡)という点では良い文章も、悪い文章もいっしょだけど、「あー、つらい読書だった!時間を、返せ!」と思わせるものがある一方、「得した!」「面白かった!」「これはスゴイ!」と思わせるものもあるわけで、新人賞選考会で残されるものは、もちろん後者なわけです。
 じゃその二つのウンコはどこで分かれてしまうのか……今、私は三点のトピックを考えましたので、それに沿ってお話させていただきたいと思います。
 一点目のトピックは、小説は人に読んでもらうものだということ。
 自分の書いてる文が、まるきり読む人に理解できなかったら、その文は紙にべったりついたインクの汚れと一緒です! そこには多少ナイーブになって、自信がなかったら先生かお友達かお母さんかお姉さんかペットにでもいいですから読んでもらいましょう! 「なかなか面白いじゃん」とか言われたら、「身内びいき」という言葉を思い出して「全然知らない人が読んでも、面白いと、思う……?」と恥ずかしそうに尋ねてみましょう! 「大丈夫だって。オレが認めた才能だぜ? ていうか、好きだ!」とか言ってもらえるかもしれません。私もそういうことがありました! でもあまり人目を気にしすぎると、まったく書けなくなったりするので、ある程度いい加減な、心の余裕が必要みたいです。バランスが難しい。
 二点目は、小説は始まって、終わるものだということ。
 選考作品の中では、「太陽は燃えさかる石である」という小説が、軽快な語り口で非常に読みやすく、とても楽しかったのですが、中盤から「魔法少女」やら「ギャルゲー」やら物語に要るんだかわからない要素が入り込んできて、結局ドラマが生まれないまま終わっていました。大体、猫耳とかメイド服とか出てきても私はそういうの疎いから何とも思わないし、作中人物たちがそれによって突然、モジモジし始めちゃうのも、全然感情移入できない。「萌え」みたいのがこの世にあるのは知ってるし、そういう要素を使って楽しむのってワンダフルだと思うけど、ちょっとフリフリしたブラウスを女の子が着てるだけで、作中の男の子たちが、
「それじゃまるで……なあ?」
「ああ。まるで……『コスプ』……」
「ダメだ!皆まで言うな!」
「コ、コ、コ、」
「もうダメだ! 黙っていられない!! 『コスプレ』みたいじゃないかーーーー!!」
 なんてやりとりばかりしていると滑稽だ(ちなみにこんなシーンはない。私の捏造だ)。コスプレの何がそんなに恥ずかしいのか。その不要なモジモジのせいで、今まで丁寧に書いてきたディテールがドブに打ち捨てられてしまい、枚数が尽きているのが、とても勿体ない。この傾向は「太陽は燃えさかる……」に限らず、どの作品でも割と見られる。私は赤ん坊を見るとカワイクてカワイクて胸の中がギューッとして捻り潰してかみつきたくなり、性的に興奮しているのかもしれないと思う。けども、
「あれ、赤ちゃんじゃない? 赤ちゃんよ!」
「マズい!ヤバい!まちがいない!」
 という会話を小説に書くことはない。だって、そう思わない人もいるに違いないもの。もし書くのだとしたら、小説に、効果的に作用するように、丁寧に書くだろう。自分の欲望に関することほど、誤って受け取られて悲しいものはないから。
 三点目は、自己表現について。
 これは難しい問題だけど、書きたいことを書こうとすると、どうにも混沌としてしまって他人に見せられるような体裁にならないという人はいると思う。とにかく、このエネルギーを放出したい、読んだ人がどう感じるかまで頭が回らない。自分の中に何が眠っているのかわからない。そういう人は、ある程度書き続けるのが良いようです。どんなメチャクチャな表現でも、回数を経れば、自分内ルールというのができてきて、そこからグルーブが生まれたりするのだ。これは「つぶれていたので顔が無い」という作品に対して言っているのであるが、著者は果たして、自分の好きなことをちゃんとやれているのかな? と思った。好きなことを好きなだけ書いたらいいよ! ただし、自分の責任のとれる範囲で。
 それでダメなら諦めちまえ! と、たぶん年下だと思うので、姉さんぶってみました。
 みんなガンバレ!

滝本竜彦

 今回は残念ながら受賞作はありませんでした。もちろんすべての作品に、ところどころ光る部分があったのですが、才能だけでは面白い小説は書けません。エンターテインメント小説であれ、いわゆる文学小説であれ、どのような種類の小説であっても、技術を使って書かない限り、良い小説にはなりません。勘違いしてはいけません、情熱や初期衝動だけで小説を書いてはいけません。小説はパンクロックではないのです。どれだけ情熱的に叫んでみても、あなたの声など誰も聴きたくありません。あなたの言葉など誰も読みたくありません。あなたのことに興味を持っている人間など、この世に一人もいません。なぜならあなたはこの世にオンリーワンであり、あなたの紡ぐ言葉はこの世にひとつだけだからです。ひとつだけなので、ちっぽけすぎて、普通なら誰もあなたの言葉なんかに耳を貸したりしないのです。まずはこのことをしっかりと肝に銘じてください。そしてそれでも小説を書きたいという強い想いが消えない方は、どうか技術を磨いてください。書店に行けば、小説執筆ハウツー本が沢山おいてあります。全部、読んでください。ハウツー本に書いてある決まり事は出来る限り守ってください。そうしたならば、あなたの言葉はきっと誰かに届くはずです。

村上達朗

 今回は非常に残念なことに該当作なしとなった。優秀賞も奨励賞もなし。選考会では、いままででいちばん低調だという意見が多かった。文章はよいのに、内容がともなわない。前々から感じていたことだが、応募作のほとんどは文章は上手なのである。特に年齢相応の、等身大に書かれている小説の文章がうまい。おそらくそれは描こうとする世界がよくわかっているからだろう。別な見方をすれば、よくわかっている世界を描くことは、労力をさほど必要としない。それゆえに無自覚になりやすい。
 描くものに自覚的にならないと、客観性が生まれず、第三者が読んで面白い作品にならないということを知ってほしい。小説はどんなに文章がうまくても、内容がともなわなければ、売り物にはならない。今回の最終候補作は、いずれも内容に不満があった。
 時里キサト氏『つぶれていたので顔が無い』は文章に破綻がなくなり、安心して読める。顔のつぶされた死体が見つかり、それを取り囲む住民たちの証言というか独白でストーリーが展開する。そのアイディアは悪くないが、結局のところ、作者がなにを書きたかったのかが、最後までわからずじまいなのだ。ある名作小説を狂言回しに使っているが、出てくるだけでそこにどんな意味があるのか、物語との関連性がわからない。むしろないようにすら思える。思いつきで書いたとは言いたくないが、書こうとする題材が見つかったら、それを読者にどう提供するか、読者にどう面白がってもらうか、もっと言えば、読者の感情をどう揺さぶることができるか、までを考えて書いてほしい。それには客観性が必須なのだ。
 高橋祐一氏『太陽は燃えさかる石である』は応募作の中では文章も内容もいちばん安定しており、面白かった。フリーター=高等遊民(?)的な気分の見せ方に、前回受賞の『鴨川ホルモー』を思わせるものがあり、作品とは関係ないところで損をしているが、それでも『鴨川ホルモー』を超える内容であれば、この作品が受賞作となったかもしれない。学問フェチの主人公も、それを上回る歴史フェチの女性のキャラも、割合よく書けている。それなのに、なぜ「魔女っ娘」が出てくる?(笑) その出し方にも小説的工夫はあるのだが、この作品にあえて登場させる意味がわからない。主人公にまつわるエピソードと強い結びつきがあるとは思えないのだ。作者が客観的な目で作品世界を精査することさえしていれば、習作を「売り物になる小説」にすることもできたはずなのに、惜しい気がした。こういうモラトリアム青年ものは題材として食傷気味だという意見が、同世代の選考委員の多くから出たことも、記しておきたい。あえて書くからには、さらなるひねりが必要だ。
 福島幸治氏『090から物語』も、文章はAクラスだった。書きっぷりが正直そうで、作者と等身大の主人公の(セックスのことばかり考えている)キャラもなかなかよく、その点にぼくは好感を持った。ただ、題材が「古い」のである。実際にはバブルがはじけようという時代の話なので、それほど古いわけではないのだが、ケイタイの出会い系サイト全盛(?)の今これを読むと、雑誌から相手を探す設定は古いと感じてしまう。そうなると感情移入がしにくくなる。時代をもっと古くするか、現代にするかすれば、防げたはずだが、自分の体験なりをもとにした「風俗小説」は、その中途半端な古さが商品力を落とすこともある。仮に「ある時期の気分を書きとめたい」という意図であっても、それが今の読者にどう受け止められるかという視点を忘れてはならない。特に新人の場合は。
 俊多氏『三階建ての魔女』も文章は悪くない。前回の応募作もそうだったが、若い世代の「能天気な気分」(失礼!)みたいなものが素直に文体に現れていて、その脱力した等身大の感覚がぼくは好きだ。中盤、話の展開がダレるところも、書きようによっては面白くできるだろう。問題は、猫耳少女、魔女、学園、いじめにある(笑)。題材に使うからには、あと最低180度くらいはひねり技を加えないとまずいのではないか。「能天気な脱力感」は俊多氏が持っている得難い魅力だとは思うが、安直な題材を安易に使ってよしとせず、意外性のある解釈で、作品世界に深みを与える工夫をしてほしい。
 小石田英氏『無双軍神ゲキシンオー』にも、ほぼ同じことが言える。文体に勢いがあり、巨大ロボット・アクションというバカバカしい題材(失礼!)に、漫画チックな登場人物をからませて描いており、かなり面白く読める。たぶん意識的に書いているのだと思うが、この物々しいバカバカしさには魅力がある。ただし、終始一貫「バカバカしい」だけなので、小説として単調、人物にも物語にも陰影が乏しい。アクションは小説ではあくまで添え物と割り切り、人間心理の陰影をすくいとるような物語を考えてみてはどうか。アクションと心理のバランスをという要望は、決してないものねだりではないとぼくは思うのだが。
 宮本恵里氏『Dのトライバル』は、先の読めない展開、独特な文体が魅力で、内容がわかりにくくさえなければ、新しい小説の誕生を予感させる作品だった。ミステリ、SF、映画「マトリックス」が渾然と融合した感じだ。渾然としすぎて、後半、誰が誰やら、なにがなにやら、わからなくなる。あらすじを何度読んでも、理解できない。多重人格を扱っているのだから、わかりにくくてかまわないという意識が、もし作者の中にあるのだとしたら、それは作者の傲慢、読者への甘えだと知ってほしい。まずは作品への冷静な視点を養うことが大事だ。意外性のある、独特の熱を持った作品を構想し、書く力があるのだから、みずからの創作物を客観的に冷静に判断する力さえ備われば、作家デビューも現実になるのではないかと思う。期待しています。
 次回、さらなる自信作の応募をお待ちします。

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