医者の卵のかえらない日々
坪田侑也
第3回「諦めたらそこで試合終了ですよ」
2023.06.05
1

五月二日 悪循環
「悪循環」という言葉がある。コトバンクからデジタル大辞泉の定義を引っ張ってくると、「ある事柄が他の悪い状態を引き起こし、それがまた前の事柄に悪影響を及ぼす関係が繰り返されて、事態がますます悪くなること」とある。そんなことより、いま気づいた。語義を引用しようと思って机周りをざっと見回したのだが、手近なところに紙の辞書がない。いままで、なにか言葉を調べたいときすべてネット上で済ませていたのだ。仮にも小説を書いて生きていきたいと考えている人間がこれでは駄目なはずだ。ちょうどつい先日、ある筋(父)から図書カードを頂戴したので、広辞苑を買いに行こうかな。
 で、悪循環の話。正直に言うと、上では「辞書が手元にない」という余談をするために定義を引用しただけであって、「悪循環」は皆様ご存じの、至極常識的な熟語だ。もう一つ余談を挟むと、類語に「負のスパイラル」というものがあるが、ときどき二つが混ざって「悪のスパイラル」と言ってしまうことがある。言ってすぐ気づくけど、これが結構恥ずかしい。悪の組織のスパイ、みたいな幼稚な響きになる。「負循環」なんて言いにくい間違え方は絶対にしないから、普段どれだけ語感に頼りきって言葉を口にしているかがわかる。
 さて本題。本題と言っても、大袈裟な話ではなく、寝不足が悪循環を生んでるね、という話だ。日中思うように事が進まず(大概の場合小説の執筆だけど)、なんとか今日中に一定の成果を出したいと思って、夜更かししてしまう。三時とか四時とかまで起きて、頑張ってみる。でも当然集中力は下がっていく一方だから、目ぼしい成果なんて上げられない。さすがに諦めて寝ると、翌日は昼頃に起き出す羽目になる。変な時間帯に寝ているので、当然夕方ごろにまた眠くなる。日中、なにも捗らない。また夜更かしする。こういう悪循環にすぐ陥る。
「いつ帳尻が合うの」
 母親に聞かれた。
「死ぬときかもしれない」
 割と真面目に、僕は答えた。
 実際には、週末部活の試合なんかが入って早起きしないといけない日が来ると、強制的に悪循環はリセットされる。部活をやっていて良かったことの一つだ。
 しかし気づいたらまた、悪循環にはまってしまうのだけど。
 
五月五日 GW
 さて、幼い子どもの発した「ゴールデンウィーク楽しかった!」という言葉が、帰省を報じるNHKのニュースでは「大型連休」という無味乾燥な字幕に変身を遂げる時期である。僕は今日まで医学部バレー部の合宿に行っていた。帰路、殺人的な渋滞に遭遇した。車は遅々として進まない。道路沿いに建つ工場の看板が一時間ずっと見えているような状況だった。結果、山梨から都内まで五時間かかった。やれやれ。
 
五月八日 筋トレ
 本来一人で楽しむ、一人で取り組むものなのに、妙に同調圧力というか、こうすべきみたいなルールが決まっている気がするものっていくつかあって、その最たる例が筋トレだと僕は思う。ある程度すでに知識を得て楽しんでいる当事者たちはきっと気にしないのだろうけど、か弱き新規参入者たちは全貌の見えない、でもたしかに存在はしているらしいルールに二の足を踏んでしまう。これが誰かと協力して取り組まないといけないもの(例えばチームスポーツとか)であれば、まだ納得できるのだけど、あくまで個人の趣味なのに他人の目を気にしないといけない環境、そしてそれ以上に他人の目を気にしてしまう自分の情けなさにしょんぽりする。
 という言い訳じみたことを、今日大学のキャンパスにあるトレーニングルームから帰る途中に考えた。身体は全然疲れていなかった。それもそのはずで、僕は筋トレをしなかった。高三ぶりに筋トレでもするかと運動着やらプロテインやらを準備してトレーニングルームに行ったのだが、扉を開けたら腰にコルセットみたいな装具を巻いた三人にぎろりと見られ、あー無理だわーと思って、すごすご帰ってきた。目が合った瞬間、「ただ様子を見にきただけですよ。うん、なるほどこういう感じね、把握した」感を出して、会釈した自分が情けない。僕の筋トレ復帰はまだ先になりそうだ。
 
五月十四日 中野
 中野で大学の友人四人と飲んだ。渋谷や新宿で飲むよりも「良さ」がある。気がする。言語化しづらいけど、中野は人々の生活が近いような感覚があって、「街」にお邪魔させてもらっているという気分というか。それが心地いいのかもしれない。渋谷や新宿という、僕たちと同じく外からやってきた多様な人々(だけ)で構成された「街」とは違っていて。
 帰り、駅までの道すがら、中野ふれあいロードに通りかかった。僕の大好きな小説『鳩の撃退法』の舞台のひとつだ。読書しながら想像していたよりも道は狭い。ここで津田伸一がバーテンを、とほろ酔いの頭で考えたら、とても幸せだった。

1 2 次へ


著者プロフィール

坪田侑也(つぼた・ゆうや)
2002年東京都生まれ。現在、都内の私立大学医学部在学。2018年、中学3年生のときに書いた『探偵はぼっちじゃない』で第21回ボイルドエッグズ新人賞を受賞。『探偵はぼっちじゃない』は2019年、KADOKAWAより単行本として刊行された。2022年、角川文庫。2023年5月、第2作となる長篇を脱稿した。

☞ Amazon > 坪田侑也『探偵はぼっちじゃない』(角川文庫)

Copyright (c) 2023 Yuya Tsubota, Boiled Eggs Ltd. All rights reserved.  Since 1999.01.01