医者の卵のかえらない日々
坪田侑也
第5回 君たちはどうラーメンを食べるか
2023.08.07
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七月四日 院内のコンビニ
 弊学医学部の教育方針の一つに「臨床と研究を両立する医療者の育成」というものがあり、それを反映して、第三学年の七月から十月、丸々授業がなく、研究活動に集中して従事しなさいという時期が来る。時期が来る、というか、来ることになった。こんなにまとめて研究の期間が与えられるのは、僕らの代からの試みらしい。自分の代からのカリキュラム変更。大学生活において最悪のことだ。
 研究期間では、学年の一人ひとり、真面目な奴もサボってばかりの奴も、どこかしらの研究室や診療科に配属され、基礎なり臨床なりの研究を行う。僕も、とある科で臨床研究をすることになった。(このプログラムにあたって、個人情報の取り扱いやら研究倫理やらを厳しく教え込まれたので、今後研究そのものについての記述はたぶんめっちゃ曖昧になります。今後日記で書くかわからないけど)
 早速今日、イントロダクションということで、その科の診察に同席した。まあその診察の中身はいいんです。ここに書いて面白いようなことじゃないから。それになにを書いてよくて、なにが駄目かわからないから。僕が書きたいのは、普段ほとんど入る機会のない弊学の病院のことだ。
 三年生というのは、うちの学校の場合、ようやく臨床医学に触れ始めたころだ。当然病院での実習なんてまだ先で、院内で着る白衣すら持っていない(だから今日の診察の同席は実験用の白衣で行った。ネズミで実験するときとかに着るやつ。ちょっと形が違って、病院だと浮く)。さらに僕自身大きな病院に行くような病気をしたこともないので、患者さんが普通に立ち入ることのできるエリアでも結構新鮮だ。
 集合場所は、院内のコンビニの前だった。早めに着いて暇だったので、そのコンビニを覗いてみると、なるほど、普通のコンビニとは違う。入院患者向けなんだろう、下着やパジャマなどの衣類やインスタント食品の種類が豊富だ。大学関連のお土産グッズもある。そんな中、ふと書籍コーナーが目に止まった。これも入院している患者さん向けなんだろうか、普通のコンビニより品揃えがいい。特に文庫本が多い。しかし違和感を覚える。文庫本は多い。でも偏りがある。なんの偏りか。出版社の偏りだ。なぜか、ほとんどが光文社文庫なのだ。そしてその次に多いのは、実業之日本社文庫。なんだろう、ちょっと不思議ではないだろうか。病院内と同じように街の書店以外で本が売っている場所にターミナル駅の売店があるが、そういう店の品揃えは、僕のイメージだと東野圭吾がずらり、特に講談社文庫と文春文庫の東野作品がずらり、という感じだ。じゃあ出版社以外になにか著者の偏りがあるかというと、そんなこともない。赤川次郎、西村京太郎、知念実希人が比較的多いくらいだ。
 考察すれば、いつか答えは出る気がする。しかし今日は「坪田さん」と呼ばれて、時間切れ。また弊学病院に行く機会があれば、なにかヒントがないかもう少し探りたい。
 
七月七日 「怪物」
 映画「怪物」を観た。監督である是枝裕和氏の作品には実のところあまり馴染みがなくて、この作品に興味を抱いたのは、脚本が坂元裕二氏だったからだ。ドラマ「カルテット」や「大豆田とわ子と3人の元夫」、映画「花束みたいな恋をした」が好きで、特に坂元脚本の重要な要素の一つである、ユニークな会話劇に幾度となく魅了されてきた。
 そんなふうにたっぷりの期待を抱いて観に行った「怪物」だが、一言で言えば、期待以上、すごく良かった。三章立ての構造とそれぞれの章を同期させるモチーフが、作品にストーリー映画としてのたしかな牽引力を与えていたし、登場人物みな、それぞれ別の視点から見たらどこか悪くて、でも善性もたしかにあって、それが普通の人々だよね、現実世界に溢れている不条理だよね、という描き方(僕にはそう感じられた)も、すごく良かった。
 でもそれだけじゃない。加えて、僕の期待とはまったく違う角度からぶん殴られるような衝撃があった。物語の中盤、胸の内でいろんな感情が渦巻いて、爆発しそうになった。記憶が揺さぶられ、自分の中の忘れかけていた感覚が底から湧き上がってくる、みたいな。
 いい映画だった。いい映画だったと同時に、なにかを観る者に残していく(少なくとも僕の中には残った)映画だった。
 
七月十日 打ち合わせ
 某出版社で新作の打ち合わせ。無事タイトルが確定して、ひとまずほっとする。それから、初校ゲラのお話。なかなか大変そう。今月、ゲラは本気でやります。あとは装丁やプロモーションについて軽く打ち合わせたのだが、帰り道、もっと自分の意見を言わなくてはと反省した。でも、どの程度のアイデアが現実的に可能でどこからが不可能なのか、正直全然わからないので、口にする前に一瞬躊躇してしまうのだ。とはいえ、そんなこと気にせず、笑われてもいいから、意見はどんどん言っていかないといけないんだろうなあと思う。
 そんなわけでどっと疲れて、帰りに飯田橋のドトール珈琲店に寄る。先月の打ち合わせも帰りに寄った、ドトールのちょっと高級版みたいな店だ。これも先月と同様、発散したいような気分だったから、パンケーキセットを注文する。スキレットに乗ったふわふわの物体を食べながら、伊藤計劃・円城塔『屍者の帝国』の続きを読む。食べ終わってからは、次の作品の構想ノートを開く。『屍者の帝国』も次作の構想も、試験に忙殺されていたから仕方ないとはいえ、ここ何週間、全然進んでいない。もっと坪田侑也の「小説」の側面に注力しないとなあ、とまた反省する。うん、この夏こそは。

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著者プロフィール

坪田侑也(つぼた・ゆうや)
2002年東京都生まれ。現在、都内の私立大学医学部在学。2018年、中学3年生のときに書いた『探偵はぼっちじゃない』で第21回ボイルドエッグズ新人賞を受賞。『探偵はぼっちじゃない』は2019年、KADOKAWAより単行本として刊行された。2022年、角川文庫。2023年5月、第2作となる長篇を脱稿した。

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