●村上達朗
今回の応募作は内容と作風がバラエティに富み、楽しんで読めた。中でも、とびきり面白く読んだのは、蒲原二郎氏『オカルトゼネコン富田林組』だった。読み出すと、脱力系と言っていいのか、頭の悪そうな(失礼!)ギャグがこれでもかと飛んでくる。いや、この程度では笑えない、笑うまいとこらえつつ読むのだが、モニターの前でつい噴き出してしまう。笑いがしばし止まらなくなる。しかも、笑わされたあとで、最後にはほろりとさせられるのである。つまり、いつのまにか作者の術中にはめられているわけだが、作者の狙いは「笑い」そのものにあるのでなく、その先の「物語」にあるのだ。そこがすばらしい。読者はどこか一昔前の喜劇映画のような笑いに乗せられているうちに、とんでもない世界に連れ込まれていたことに気づく。
とんでもない世界とは何か、ここで書くことはできないが、愛すべき好青年・田中くん22歳を待つ抱腹絶倒の運命(いや、業務命令?)を、どうか楽しみにしていてほしい。スケールの大きな新人作家が近く誕生することと思う。
以下、受賞作以外に、気になった作品について感想を短く述べる。
藤山勇司氏『YASAGURE』は簡潔な文章がよかった。言葉足らずで状況が飲み込めないところもあるが、会話、地の文とも、新人とは思えぬよい文章だった。近年の作家志望者は、総じて文章が過剰、会話が饒舌になる傾向にある。無駄のない簡潔な文章を書くのは本来むずかしいものだが、藤山氏はそんなことも意識せず、いとも簡単に簡潔な文体を自分のものにしているように見受けられる。得難い才能だと思う。それができたのはおそらくは自らの青春時代の体験をそのまま綴っているからだと(勝手ながら)推察するのだが、小説としてはそこが弱かった。小説なら、物語を作り込むことだ。若かりし頃の感興、感傷を読者に正確に伝えるためには、そのままでなく、むしろ体験を素材として「作り込む」作業が必要なのだ。感傷が通俗に走る傾向があり、そうした点も気になった。
恵にこ氏『クラスのひよこ様』は教室でいじめにあっていた男子がいきなりひよこになってしまうというシュールな展開の物語で、文章もよい。ただ、これは若い作者にわかってもらいたいのだが、物語を読者に納得してもらうためには、客観性がどうしたって必要だ。現実には、失踪した(ひよこになった)男子の母親が失踪届けを出さないのはおかしいし、先生や学校がなにも動いてくれないのも変だ。「ひよこ問題」も未解決のまま終わる。シュールな設定にすればするほど、現実との照合が必要になるはずだが、そこを手抜きしている。つまり、世界が狭すぎるのである。自分の知っている世界だけでなく、まわりの世界をも調べて書いてこそ読者も楽しめる作品になるということをわかってほしい。小説でいじめ問題をテーマにするのは食傷気味だということも指摘しておきたい。
上浪春海氏『細い人』も文章は非常に安定している。紐のように細い人間が存在するというアイディアにも面白みがあり、出だしには期待させられた。ただ、その後のストーリーがフラットで、展開に想像力の飛躍がない。作者は細い人間の存在を証明することに汲々として、小説が本来描かなければならない「葛藤」をどこかに置き忘れているようだ。
京子氏『まるまり草紙』は江戸戯作の文体で描いた時代ものなのだが、小説なのだからなにを書いてもよいとはいえ、主人公が羊というのはいかにも奇をてらい過ぎだ。これでは主人公に感情移入できない。戯作趣味の文体も雰囲気作りに役立っているというより、作者一人で面白がっている様子が見えて、これまた興を削ぐ。この文体をすべてふつうの現代文に直したら、裸にされた物語はいかにも弱いということが作者にもわかるはずだ。文章に凝るよりも、まずは中身。おしゃべりは厳に慎むべし。
寺島ウシ氏『ゴミ箱女』は安部公房や星新一を思わせる奇譚で、文章力がある。人物も息づいている。読後、いまでも「ゴミ箱女」の様子が脳裏に焼き付いて離れないほどだ。それほど描写に力がある。書き方にグルーヴ感がある。が、読み終わると、これは頭で作ったお話で、お話の域を出ていないということがわかる。(一種のホラーとして意図的にそうしたのかもしれないが)お話そのものの後味も悪い。ただ、作者の若さ(22歳)で、これだけの飾りのない平明な文章はそうそう書けるものではない。小説家になりたいと願うなら、作品に距離をおき、一読者の目で読み直してみる習慣をつけるとよいと思う。『ゴミ箱女』を読者は心底楽しんでくれるだろうか。読後、この作品にお金を払ってよかったと思ってくれるだろうか。才能と合わせ、そうした評価力が身についてくれば、作品はやがて本物になると思う。
以上、上記作の作者にかぎらず、作家志望者の参考になればと思い、感想を述べた。
次回も、チャレンジングな作品を期待しています。 |