ぼくの小説作法
……・ときどきサンドイッチ作り・……
大石大
第10回 椅子難民の夜明け
2024.1.22

 長年、身体に合った椅子が見つからずに困っている。
 十数年前、定期的に小説を投稿するようになったころ、大手家具店で八千円程度のデスクと、それよりさらに安価のオフィスチェアを買った。値段を最優先に選んだために決して座りやすい椅子ではなく、せっかく買ったのに近所の喫茶店で執筆することが多かった。
 そのころ読んだ小説家志望者向けのハウツー本では、自宅の執筆環境を整えることの大切さを説いていた。その本では、特に重要なのは椅子選びであり、長時間座っていても疲れないような高級椅子を買うべきだ、と力説していた。僕はその本に触発され、金額にこだわらない椅子選びをすることに決めた。
 オフィス家具メーカーのショールームや高級家具を扱う店に出向き、実際に椅子に座った上で購入を決めたのが、海外製の、15万円もする椅子だった。人間工学(人間の身体・能力に合わせて機械・設備を設計しようとする学問、だそうです)に基づいて設計されており、長時間正しい姿勢を保つことができるため腰痛とは無縁でいられるらしく、実際に座ってみたところ、猫背の僕でも自然に背筋を伸ばした状態を保つことができた。店員もこの椅子が一押しだというので、思い切って購入することにした。この椅子で面白い小説を書きまくってやろう、と意気込んだものだった。
 だが、結果的にこの椅子は僕の身体にまるで合わなかった。
 最初のうちは無理なく正しい姿勢を保つことができるのだが、しばらくするとその状態を維持し続けることが苦痛になってくる。謳い文句とは異なり、正しい姿勢でいられるのはほんの短い時間だけだった。
 特に僕の場合は、椅子に座っている間、じっと足を下ろしていることが苦手で、椅子の上に片足だけ載せたり、あぐらをかいたり、膝を立てたりしたくなる。特に考え事をしているときほど(つまり執筆時間の大半)、何度も体勢を変えたくなるのだ。だが、その椅子は正しい座り方をしたときにフィットするようにデザインされているせいか、座り方を崩すととたんに使い勝手が悪くなる。腰や尻の形に合わせて背もたれや座面が湾曲しているため、姿勢を崩すと逆に身体に負担がかかってしまうのだ。
 それ以上につらいのが、その椅子に座っていると太ももに負担がかかることだった。
 この椅子は、必ず深く腰掛けなければならない。浅く座ると、先にも述べたとおり椅子の形状と身体のラインが合わなくなるために、ひどく座りにくい椅子になってしまうのだ。ただ、僕はどうやら太ももの裏側に人一倍肉がついているらしく、深く腰掛けていると太ももの裏側が圧迫されてしまい、だんだん痛くなってくるのだ。
 正しい座り方をしていても、姿勢を崩しても居心地が悪い。身体に合わない椅子に座り続けているうちに、腰痛とは無縁との触れ込みだったにもかかわらず、腰が痛くなり始めてきた。15万の椅子に座り続けることは、僕にとって苦行でしかなかった。
 ちなみにその椅子は今、コロナ禍を機に在宅勤務となった妻が使っている。だが妻も、とても座りにくいとよく不満をこぼしている。人間工学とやらに基づいて作られた椅子なのに、夫婦そろって座りにくいと言っているのだから、我々はもはや人間ではないのかもしれない。
 ともかく、15万の椅子に座るのを諦め、ふたたび違う椅子を探すことになった。
 ただ、あらためて家具店やショールームへ赴く気にはなれなかった。実際に店で座って選んだにもかかわらず失敗した以上、もはや自分の感覚を信用する気にはなれない。
 代わりに、当時勤めていた職場で使っていたオフィスチェアをインターネットで購入することにした。
 職場の椅子は1万5千円程度の安い製品だが、一日中座っていても疲れることはない。これなら間違いないと思い、Amazonで注文した。
 だが、これもうまくいかなかった。
 まず、誤って違う型番の椅子を購入してしまった。それでも、その椅子が座りやすければ問題ないのだが、これがまるでダメだった。
 その椅子は、背もたれの下部(ちょうど腰のあたり)が出っ張っていた。身体にフィットするように、という狙いなのだろうが、これが背中に突き刺さるような感覚で、ものすごく違和感があった。さらに、座面が盛り上がっていたせいで、15万の椅子と同様、太ももに圧迫感を覚えた。
 あらためて正しい型番で買い直したのだが、職場と同じ椅子のはずなのに、これもなぜか身体に合わなかった。
 太ももへの圧迫感はなかったのだが、その椅子も背もたれの出っ張りが気になった。ちょっと深く腰掛けただけで、座面が背中に刺さる感覚があり、まったく座り心地がよくなかった。職場の椅子は違和感なく使えているのに、なぜこれほど違いが生まれるのか、わけがわからなかった。
 店で椅子を選んでもダメ、職場と同じ椅子を買ってもダメ。椅子選びに失敗するたびに、金をドブに投げ捨てているような感覚に襲われた。異動が決まった際、レンタカーで職場まで行き、職場の椅子と自分で買った椅子をこっそり交換しようか、と真剣に考えた。
 これ以上、新たに椅子を探し求める気にはなれなかった。
 ここ三年ほど、僕はオフィス用の椅子ではなく、ダイニングチェアを使って仕事をしている。
 当時、自宅のダイニングの椅子に座っていると腰が痛くなってきたため、もっと座り心地のいい椅子を買い直したのだが、テーブルの高さと合わず、ダイニング用に使うことはできなかった(僕はダイニングチェア選びもうまくいかないのだ!)。ただ、その椅子は仕事用の机の高さには合っていたため、それを用いてこれまで執筆をしてきた。
 だが、やはりオフィス用ではない椅子で長時間パソコンに向かうのはよくないらしく、ここ数カ月、かつてないほどの腰痛に苦しめられてきた。年明けに整骨院へ行ったのだが、先生に「これはひどいですね」と呆れられてしまった。
 やはり、金をドブに捨てる危険を冒してでも、ちゃんとした椅子を見つけなければいけない、と決意した。
 先日、家具店へ赴き、よく吟味した上で、4万5千円のオフィスチェアを購入してきた。自宅に届くのは、この原稿の締め切り日の直後。十数年にわたる椅子探しの旅も、これで終わりになるといいのだが……。
 
 最後に、自宅用のオフィスチェアを探す方にひとつだけアドバイスを。店頭で椅子を選ぶ際は、当然靴を履いて試し座りをすると思いますが、自宅では裸足、もしくは靴下のみの状態で椅子に座ることになります。この数ミリの差は意外と大きく、座り心地の良し悪しに影響を及ぼす可能性があるので、椅子を選ぶ際は靴を脱いで座ってみることをお勧めします。 


著者プロフィール

大石大(おおいし・だい)
1984年秋田県生まれ。法政大学社会学部卒業。『シャガクに訊け!』で第22回ボイルドエッグズ新人賞を受賞(2019年2月1日発表)。受賞作は光文社より2019年10月刊行された。2020年、短篇「バビップとケーブブ」が「小説宝石」12月号(光文社)に掲載。2021年5月、単行本第2作『いつものBarで、失恋の謎解きを』を双葉社より刊行。2022年5月、単行本第3作『死神を祀る』を双葉社より刊行。短篇「シェルター」が「小説宝石」7月号(光文社)に掲載。短篇「危険業務手当」が「小説宝石」8・9月合併号に掲載。2022年10月、『シャガクに訊け!』が文庫化、光文社文庫より刊行。2023年6月20日、光文社より新作『校庭の迷える大人たち』刊行。

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