ぼくの小説作法
……・ときどきサンドイッチ作り・……
大石大
第15回 マンスプレイニングについて
2024.6.17

 先日終了したテレビ番組『ブラタモリ』に対して、SNS上で「いい番組だったが、マンスプレイニングの構図がずっと気になっていた」という趣旨の批判をしている大学の先生がいて、少しだけ話題になった。
 初めてマンスプレイニングという言葉を聞いたのでネットで検索したところ、「女はものを知らない」という偏見を前提に、男性が(おもに若い)女性に対し、相手を見下したような態度で自分の知識をひけらかすことを指すらしい。
『ブラタモリ』はタモリが日本各地を散策する中で、その土地の歴史や地学系の知識を語ることが多く、その横には若手の女性アナウンサーが必ずいるため、上記のような指摘があったのだ。この指摘には批判が多く、ちょっとした炎上状態になったのだが、僕はその様子を眺めながら、「ああ、やっぱりこういう概念が存在したのか」とショックを受けていた。
 以前から、過去に発表した自身の作品における「ある傾向」がずっと気になっていた。
 僕は『シャガクに訊け!』という大学を舞台にした長編小説でデビューしたのだが、これは、社会学部の先生(男性)が学生の悩み相談に応じていて、学生たちの抱える問題を社会学の知識を駆使して解決に導く、というストーリーだ。主人公はその先生のゼミに所属する女子学生なのだが、一年生のときに授業をサボりまくっていたために社会学のことをまるで知らない。彼女は先生が相談に訪れた学生に社会学の知識を語るのを横で聞き、少しずつ学びを深めていく。
 二作目の『恋の謎解きはヒット曲にのせて』は連作短編だ。主人公は三十一歳の女性で、行きつけのバーで過去に経験した数々の失恋を語っていると、その都度カウンターの隅で飲む初老の男性が相手男性の心の動きを見抜き、心理学等の知識を語りながら主人公の気づかなかった失恋の本当の理由を解き明かしていく。
 二作目の刊行前に、小説宝石に『バビップとケーブブ』という短編を掲載した。主人公は仕事がうまくいかずに悩んでいる二十代の女性で、とあるプロ野球選手の熱狂的なファンだった。彼女は球場で知り合った年上の男性と一緒に野球観戦をするのだが、その際に相手男性が野球の統計にまつわる知識を披露する。主人公はそこで得た知識から仕事のヒントを得る、という展開を見せる。
 このように、「年上の男性が、若い女性に自分の知識を披露する」場面が物語の核となっている作品が、三作も続いているのだ。
 このうち、「知識を披露する」物語が続いていることは、別に問題だとは思っていない。二作目の構図がデビュー作と似ているのは、一作目と同じ路線でもう一度書いてみよう、と思ってのことだし、雑誌に掲載した短編は、思いついた題材を最大限に生かすにはこの形式がベストだと信じて書いた。これらは一作目の流れを意図的に踏襲したものであり、決してこの形式でしか小説を書けなかったわけではない。
 問題なのは、知識を授ける側が年上の男性で、教えを乞うのが若い女性という構図が続いたのは、意識していたわけではないことだ。この傾向が、マンスプレイニングという概念を知る前からずっと引っかかっていた。
 一応、各作品ごとに性別を決めた理由はある。
 二作目と、雑誌に掲載した短編の主人公を女性にしたのは、僕は若い女性を主人公にしたほうが生き生きとした物語を書けるから、という事情があった。一作目に登場する大学の先生については、彼を怠惰な人間にしたくて、その際に自分自身のダメな部分を参考に描こうと思い、自分と同じ男性に設定した。そして先生と行動をともにする主人公を女性にして男女のバランスを取ろうとした。
 このとおり、それぞれの作品にそれぞれの事情があるのだが、それでもただでさえマンスプレイニングという概念が存在する中で、それに該当する可能性を含んだ物語が三作も続いていると、さすがに自分の中にも「女はものを知らない」という差別意識がひそんでいるのではないかと疑わざるを得ない。
 あらためて自分の心を省みてみたのだが、女性が社会的に高い地位に就いていることに反感を覚えることはまったくない。職場で女性の上司に叱られたり、大学の先生や病院の担当医が女性だったりしても、相手が女性であることを意識したり、不満を覚えたことは一度もなかった。
 ただ、政治のニュースで政治家が声を荒らげて相手を批判する場面が登場する際に、その政治家が男性だったらなんとも思わない一方、女性のときだけ、「そんなきつい言い方をしなくても」と眉をひそめたくなることがある。批判の内容に賛同しているときですらそう思ってしまうのだから、あまり認めたくはないけれど、「女のくせに」という感情が多少はあるのかもしれない。
 ただ実際のところ、自作を読んでマンスプレイニングだと感じた方はあまりいないのではないか、と自分では思っている。
 どの作品も、たしかに男性が女性に自身の知識を語ってはいるのだが、決してひけらかしてはいないのだ。
『シャガクに訊け!』では、あくまで学生の悩みを解決するための手段として社会学の知識を用いている。『恋の謎解きはヒットのに乗せて』に出てくる男性はとても気弱な性格で、つねに申し訳なさそうに主人公の会話に介入し、主人公に強い口調で言い返されるたびにびくびく怯えながら心理学の知識を語る。『バビップとケーブブ』では、男性はあくまで主人公を楽しませるために、自身の持つ野球の知識を披露している。ものを知らない女に自分の知識をひけらかして悦に浸る、という尊大さとは無縁だ。僕としては、引っかかる部分がないわけではないけれど、この点をもって自作はマンスプレイニングではないのではないか、と擁護したいところだ。
 誰のことも差別せずにいられる人はおそらくいない。そして、差別はつねに無意識に行われる。ふだん用いる言葉の端々に、差別は不意に現れる。文章を書く際は、差別意識が無意識のうちに露呈していないか、これまで以上に注意していきたい。


著者プロフィール

大石大(おおいし・だい)
1984年秋田県生まれ。法政大学社会学部卒業。『シャガクに訊け!』で第22回ボイルドエッグズ新人賞を受賞(2019年2月1日発表)。受賞作は光文社より2019年10月刊行された。2020年、短篇「バビップとケーブブ」が「小説宝石」12月号(光文社)に掲載。2021年5月、単行本第2作『いつものBarで、失恋の謎解きを』を双葉社より刊行。2022年5月、単行本第3作『死神を祀る』を双葉社より刊行。短篇「シェルター」が「小説宝石」7月号(光文社)に掲載。短篇「危険業務手当」が「小説宝石」8・9月合併号に掲載。2022年10月、『シャガクに訊け!』が文庫化、光文社文庫より刊行。2023年、光文社より『校庭の迷える大人たち』刊行。2024年3月、『恋の謎解きはヒット曲にのせて』(双葉文庫/『いつものBarで、失恋の謎解きを』改題)刊行。

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