医者の卵のかえらない日々
坪田侑也
第16回 僕のNISAが始まらない
2024.7.01
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六月三日 母校
 試験前日である。四年生はなぜか六月と七月、二カ月連続で試験が開催されるカリキュラムになっていて、その第一弾となる試験期間が明日から始まる。そんな試験前日、僕は軽い二日酔いで昼前に起き出し、ぼんやり痛む頭を持て余しながら、十五時ごろ母校の小学校を訪問した。試験前日のこのクソ忙しい日にノスタルジーに浸りたかったわけではもちろんない。今月二十日に母校で講演会することになっていて、その下見のために訪れたのだ。
 お話をいただいたのは三月ごろ。学校をあげて生徒に読書を促す「読書祭」なる一週間のイベントがあって、その企画の一つとして講演会を依頼された。最初の打ち合わせは三月末。この打ち合わせは三月の日記にも書いたけど、人生で初めてすっぽかしてしまって、結局行くことができず、約束の時間から三十分遅れてズームで繋いでもらった。いま思い出しても、情けないし、本当に申し訳ないです。その打ち合わせの場で、講演に加えて、なにか特別企画を行ってほしいとも頼まれた。というのも、僕は卒業生の作家として講演するわけだが、当然生徒みんな(講演を聞いてくれるのは五、六年生だという)が拙著を読んでいるわけではない。僕の本を読んだことない子、もっと言えば本を読む習慣すらない子は、僕がどんな思いで小説を書いているかなど聞いても、なかなか伝わらない。なにか一つ企画があればいいんですけど、と言われ、そこで僕はこんな提案をした。「じゃあ一つ、短編を書きます。それを壇上で朗読します」。
 そのとき頭にあったのは、三月の初めに観覧した村上春樹と川上未映子の朗読会で、朗読という趣向が新鮮で面白く、いつかやってみたいと思っていた。しかし、いまにして思えばどうしてあんな軽い気持ちで提案してしまったのだ、と戦慄する。というのも別の作品にこのところ取りかかっていたため、朗読用の短編はまだ一文字も書いていないのである。講演会までまだ二週間あるから大丈夫じゃん、と思われるかもしれないが、忘れてはいけない、明日から試験なのだ。試験期間は十三日まで。そこから一週間で、短編とはいえ、新しい作品を書かなければいけないのだ。一週間で短編を書くくらい、世の小説家の方々はやっているのかもしれないが、恥ずかしながら僕には経験がない。未来の自分がなんとかしてくれる、という楽観と、あとで泣きを見るのは自分だ、という悲観が同居している。
 さて、今日の話に戻ると、講演の下見のために母校を訪れたと書いたが、正確に言えばその短編の取材のためである。短編は母校を舞台にすることにしていて、ある程度構想は固まっていたが、なにせ僕の小学校時の記憶で描写するわけにはいかないので、取材が必要なのである。
 講演を依頼してくれた図書室の先生に挨拶し(前回すっぽかした非礼も詫び)、お世話になった担任の先生とももれなく会えて、あとは一時間くらい校内をぶらぶら歩き回って、写真を撮ったりしていた。結構、記憶のとおりだった。でも記憶の間違いはたしかにほとんどなかったけれど、忘れていたこともあって(例えば学校の脇の川の様子とか、校庭の隅の卓球台とか、校庭を取り囲むように設置された放水銃とか)、そのあたりは執筆のために大きな収穫だった。
 さて、試験が終わったあと、僕は無事書き上げることができるだろうか。不安を抱えたまま小学校を出て、駅の近くのスターバックスで二時間ほど明日の麻酔科の試験勉強。
 
六月八日 スペシャルマッチ
 午前中、来週に迫った形成外科学の試験勉強を進める。目を背けたくなるような画像が頻出するのがこの形成外科という分野で、うっとときどきショックを受けながら勉強を進める。形成外科医にはなれないかもなあと思う。午後になって勉強終了。電車を乗り継いで、西早稲田駅で降り、そこから早稲田大学戸山キャンパスまで歩いた。本日は大学のバレーボールの早慶戦である。慶應の過激派は慶早戦と呼ぶ、年に一度のスペシャルマッチ。体育会のバレーボール部には知り合いも何人か所属しているので、高校時代のバレー部のチームメイトとともに応援に来た。
 バレーの早慶戦は去年も観戦していて去年も同じように思ったのだが、なんというか、これが大学のスポーツであり、大学という世界だよな、と打ちのめされてしまう。体育会で真剣にスポーツに取り組む人がいて、それを応援する組織があり、試合を運営・広報する組織があり、OB・OGがいて、そして観客席には大勢の学生が詰めかける。そして自分の学校の勝利を心から祈る。普段、医学部のキャンパスで寂しく細々と授業を受けている身からすると、その熱量に圧倒されてしまう。
 でもそんなことを感じたのは、体育館に入った瞬間だけ。いや、もう少し長いか。だいたい一セット目の中盤くらいまで。そこからは、目の前で繰り広げられる試合にとにかく魅了された(高校時代のチームメイトのパワーでフロアの最前席に座れた!)。早慶戦はやはりドラマが生まれる。目が離せなかったし、気づけばあらんかぎりの声を出して応援していた。
 
六月九日 試合
 あんなにすごい試合を見た翌日だから、バレーボールのモチベーションが最高潮に達していた。本日は僕の所属する医学部体育会バレーボール部の医歯薬リーグ初日。なんだか人生最高のプレイができる予感が、朝の段階ではしていた。
 しかし試合には負けた。あまり活躍もできず……。

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著者プロフィール

坪田侑也(つぼた・ゆうや)
2002年東京都生まれ。現在、都内の私立大学医学部在学。2018年、中学3年生のときに書いた『探偵はぼっちじゃない』で第21回ボイルドエッグズ新人賞を受賞。『探偵はぼっちじゃない』は2019年、KADOKAWAより単行本として刊行された。2022年、角川文庫。2023年5月、第2作となる長篇を脱稿。この第2作は『八秒で跳べ』として、2024年2月、文藝春秋より刊行。

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